本:多くを教えてくれる

奇妙な登場人物たちが錯綜を極める複雑怪奇な世界

競売ナンバー49の叫び」 トマス・ピンチョン
(1937~)





トマス・ピンチョンという作家をご存じだろうか?難解な作家と言えばまず一番に名前が挙がるであろう現代アメリカ文学の最高峰に君臨し続ける天才作家である。
デビュー作『V. 』でフォークナー賞、『競売ナンバー49の叫び』でローゼンタール基金賞、『重力の虹』で全米図書賞を受賞という輝かしい経歴を持つトマス・ピンチョンだが、寡作な上にマスコミとの接触をほとんど持たず、その素性すら知られていない。写真は1、2枚しか存在していないし、インタビューには1度も応じたことがないという。
ただし、研究者により以下の事が判明している。1937年5月8日、ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。ピンチョン家はアメリカ最古の家柄のひとつで父は測量技師。16歳で名門コーネル大学に入学、工学部応用物理学科に飛び級入学、その後2年間軍役につき、復員後英文科に転科。最優等で卒業したピンチョンは大学院の奨学金を断り、グリニッジ・ヴィレッジのアパートメントでボヘミアン生活を送りながら小説『V.』を執筆しはじめる。その後2年ほどボーイング社に勤務し、その間3編の短編を文芸誌に掲載。退職後はカリフォルニアやメキシコに移り住む。1962年、メキシコで長編第1作『V.』を完成。1966年『競売ナンバー49の叫び』、1973年『重力の虹』を発表。
1975年、米文芸アカデミーより5年に1度優秀な小説に与えられるハウエルズ賞に選ばれたが、「いらないものはいらない」と受賞を辞退している。
1984年に初期短篇集『スロー・ラーナー』を刊行以降、実質17年間沈黙する。その沈黙を突如破り、1990年『ヴァインランド』を発表。1997年には『メイスン&ディクスン』を刊行、2006年『逆光』、2009年『LAヴァイス』と、1作ごとに世界的注目を浴びている。ノーベル文学賞候補の常連だが、これまでの経緯から「受賞しても式に現れないのでは」と囁かれている。
ちなみにTVアニメ『ザ・シンプソンズ』には本人役として声の出演をした事があるらしい。

実は私も10年以上前に『重力の虹』に挑戦したものの、何度読んでも意味が頭に入ってこなくて挫折したという苦い過去がある。ピンチョンはとにかく難解なのだ。
そんな難解さで知られるピンチョン作品の中では、一番分かりやすいと定評がある作品が『競売ナンバー49の叫び』である。この作品なら短いし、手始めに読むには最適である。
しかし、それでも一筋縄ではいかない。本作には凄まじいディテールと知識が詰め込んであるため、巻末に50ページ以上の“解注”がついている。

物語の舞台は1960年代。平凡な毎日を送っていた主人公エディパ・マースは、ある夏の日の午後舞い込んだ手紙によって過去に愛人関係であった資産家ピアス・インヴェラリティの遺言処理執行人として指名されたことを知る。
困惑するエディパは弁護士に相談したり、ピアスの残した財産を見に行ったりする。そして作品中の文章を借りれば“それ以後、自体は遅滞なく奇妙な方向へと発展する”ことになる。
エディパの前に、ピアスの遺産の中にあった偽造切手をはじめ、消音器をつけられたラッパのマークや謎の地下郵便組織トライステロという名称に関わる物事が次々と現れるようになる。
戸惑いながらも謎を追い続けるエディパは、遺産よりもトライステロの解明にのめりこんで行く。と同時に、彼女の周囲にトライステロの影が増殖し、事あるごとに意味ありげな謎を暗示させるシンボルを発見する。

ここまで来ると、すべてはエディパの妄想ではないかという気もしてくるのだが、実際のストーリーはこんな単純なものではなく、得体の知れない人々が登場しては奇怪なドラマを繰り広げる。
匿名の通信が往来する中をエディパは右往左往し“彼女の楽天性神経網の節目を一つひとつ、寸分の狂いなく押していって、彼女を動けなくしていく”。
遺言として何かを得るはずであったエディパは、むしろ様々な形で様々なものを失っていくのだ。
果たしてピアスの遺産とは?謎の地下郵便組織トライステロの実態とは?そしてエディパの運命は?

『競売ナンバー49の叫び』の主要テーマは、“この世は陰謀に支配されているのではないか?”というアメリカ社会のパラノイアを描こうとするものだと言われている。(パラノイア=偏執症の主な症状は、被害妄想、誇大妄想、激しい攻撃性、自己中心的性格、異常な独占欲など)
また、地下通信組織網を探るという設定は、現代のインターネット社会にも当てはまる。本文に登場する女性画家、レメディオス・バロの作品『大地のマントを織りつむぐ』も塔のてっぺんでタペストリーを織り、そのタペストリーが世界を覆い尽くす絵で、ネットワークが世界を覆ったイメージとも解釈できる。そして、この作品にはインターネット同様、膨大な情報がありながら情報が無いに等しい。
“おがくず”という言葉を聞いただけで昔のことを思い出し過剰に反応するエディパの夫や、合い鍵を使って勝手に部屋に入ってくるロックバンド“パラノイア”のメンバーなど、風刺的に描かれた登場人物たちの言動は滑稽で物語を混沌とした世界へと導いていく。

ピンチョンの文体は軽快で歯切れ良く、様々な世界観が織り込まれているが、イメージを膨らませるような表現は使われず、迷路の中をさまよっているような暗喩が延々と続く。そして、その中に驚くようなイメージが繰り拡げられたりする。しかし、そのイメージは特に展開することなく消えて行ったりする。
ピンチョンの作品は全てがそういう感じなのだ。読者の感覚によって作品の風合いが変わり、考えれば考えるほど焦点がぼやけていく。彼の作品は、謎のトライステロそのもののようである。しかし、その混沌とした作品世界は決して暗く不安に満ちた世界ではなく、明るく淡々としているのが魅力なのだ。

『競売ナンバー49の叫び』は決して読みにくい本ではない。しかし、めまぐるしく登場する人物や、シンボルの意味に気を取られていると混乱するので、とりあえず一気に最後まで読んで、それから読み返していくのが最良だろう。何度も読み返す事によって、その面白さを深めて行くスルメのような作品である。


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