概念が崩壊し、迷路から抜け出せなくなるような不可思議な世界


「壁」 安部公房(1924年〜1993年)


『壁』安部公房著
発行元/新潮文庫 価格/459円(税込)




医師である父・安部浅吉と、母・よりみの長男として生まれ、奉天市(現・瀋陽市)で幼少期を過ごす。本名は、字は同じだが、公房(きみふさ)である。小学校では実験的な英才教育を受けている。1940年に満洲の旧制奉天第二中学校を卒業。帰国して旧制成城高等学校(現・成城大学)理科乙類に入学。1943年9月、戦時下のため繰上げ卒業し、10月に東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年20歳の時に文科系学生の徴兵猶予が停止されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」と感じた事と「敗戦が近い」という噂を耳にして家族が心配になり、大学に届けも出さず満州に帰ったので親友が代返をして繕ってくれる。1945年は実家で開業医となった父の手伝いをして過ごし8月15日の終戦を迎える。1948年に卒業するが、医師国家試験は受験しなかった。
1951年『近代文学』2月号で、短編「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が発表された。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、1951年上半期の第25回芥川賞を受賞した。「壁」は、選考会の席上で選考委員の宇野浩二から酷評されたものの、同じく選考委員の川端康成や瀧井孝作の強い推挙が受賞の決め手となった。同年5月に「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、「S・カルマ氏の犯罪」と改題の上、短編「バベルの塔の狸」および短編集「赤い繭」と共に、石川淳の序文を添えて最初の短編集「壁」として出版された。
主要作品は、小説に「壁」「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」「箱男」など。戯曲に「友達」「棒になった男」「幽霊はここにいる」などがある。自らの演出による舞台でも国際的な評価を受け、晩年はノーベル文学賞の候補にも挙げられた。1992年12月25日深夜に脳内出血で倒れ、退院後も自宅療養を続けるが、1993年1月20日から症状が悪化し、1月22日早朝、急性心不全により死去。享年68歳であった。大江健三郎も、安部公房をカフカやフォークナーと並ぶ世界最高の作家と位置づけており、安部がもっと長生きしていればノーベル文学賞を受賞したであろうという事を述べている。

安部公房は日本人で初めてワープロで小説を執筆した作家としても有名で、死後「飛ぶ男」などの遺作がワープロのフロッピーディスクから発見されるという、当時としては珍しい遺作の発見のされ方が話題となった。また、趣味の域を越えた写真マニアとしても知られ、彼ならではのインテリジェンスに満ちた作品を多く残している。現在、それらの一部は『安部公房全集』(新潮社)の箱裏と見返しで見ることができる。安部が好きな写真のモチーフはごみ捨て場などであった。また、1986年にはジャッキを使わずに巻ける簡易着脱型タイヤ・チェーン“チェニジー”を発明。第10回国際発明家エキスポ'86で銀賞を受賞している。

安部公房は、混沌とした現実を微分積分して物語の形で表現出来た数少ない作家であり、現代文学の非常に重要な人物の1人だろう。彼の作品は、しばしば現実を大きく飛び越えていくために、その内容を把握することが非常に困難であると感じる読者もいるかもしれない。しかし、今まで感じていた混沌をはっきり認識するためにも安部公房の世界は非常に重要だと思う。彼の作品で感じさせられる困惑や、常識が崩壊するような感覚は、社会と個人との繋がりとは、自分の存在とは、といった基本的な概念について、より幅広い思想を形成するためにも大いに参考になるのではないかと思う。
また、安部作品の特徴のひとつは、日本を舞台にしながらも、ありえないような不条理な設定がなされていることだろう。登場人物に名前があることすら稀なのだ。そのため、読者はあたかも現実から切り離されたような不思議な心理状態にさせられる。しかし、そのような前衛性だけで安部公房は語りつくせない。非現実的な設定であるが故にあらゆる立場の人の心を動かせる可能性も生まれるのではないか。実際“無国籍作家”と呼ばれることもあり、世界各国で翻訳されていることは有名である。

安部公房の作品で、私が初めて読んで衝撃を受けたのも「壁」だった。それまで読んだどの小説とも違う発想と展開に仰天し、この突飛な発想は一体どこから来るのだろう?と思いながら物語の世界に引き込まれた記憶がある。一般的な小説が平面的なら、安部公房の小説は立体的だとでも言えばよいだろうか。それ以来、すっかり安部作品のファンになってしまったのだが、彼の作品に慣れてくると、その不条理な世界に迷いこんだような不確かな感覚がむしろ楽しく感じられるのである。
彼の作品の魅力は、不条理性を持ちながらも独特のユーモアや良質な寓話性を兼ね備えている所だと言われるが、「壁」と題されたこの短編集もそのような安部らしさがストレートに表現された作品集だと言える。「壁」は三部から成っていて、それぞれ「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」「赤い繭」という題名がついている(「赤い繭」だけが数編の短編から成り立っている)。それぞれが独立した内容であるが、全てのテーマは「壁」である。人の名前などのアイデンティティの問題や、人間の肉体の問題など、不条理な世界の中で「壁」に遭遇する恐怖にも似た感情が次々に語られるのだ。特に「バベルの塔の狸」は一番印象深い。題名から想像できるようにコミカルな話だが、単に笑って済まされない内容である。

第一部 S・カルマ氏の犯罪
目が覚めたら、名前が分かりませんでした。
この話はそこから始まる。他の行動様式等の記憶はあるのに、主人公は自分を表す固有名詞を持っていない。そして固有名詞は固有名詞として一人歩きしていく。固有名詞を持たない実体と、実体を持たない固有名詞の奇妙な掛け合い。そして、その状況をあざ笑うかのように登場する法学者に数学者に哲学者。いずれも現象から象徴(モデル)を抽出し、論理として仮想の世界で操るプロたちである。この奇妙な事態を、奇妙な論理で解決しようとする彼らは滑稽で哀れだ。話の構造が何重にもなっていて、非常に面白い。構成面も一分の隙も無く、1語たりとも付け加えたり削ったりできないのでは、と思われるほどに練られている。芥川賞受賞も当然と頷ける作品。

第二部 バベルの塔の狸
ある日、空想癖のある男が奇妙な動物に突然影を喰われて、目玉以外のあらゆる身体の部分が透明になってしまう。男は影を取り返すべくバベルの塔に向かうが…。ここで安部公房が描いているのは、因果が逆転してしまった世界だ。普通私たちは、過去にある出来事があったから、現在の状態があると考える。しかし、ここで描かれているのは絶対的な支配力を持つ非常識な現在の状態であり、過去はその現在の状態によって規定されるという世界だ。この中で、主人公は獣に影を喰われてしまう。そのせいで主人公は透明人間になってしまった。主人公は考える。どうして俺は透明になったのか、と。そして彼が思い至ったのは、影がなくなったから透明になったという結論であった。とても不思議な展開であるが、私たちが日常で遭遇する感覚でもある。私たちは未来を完全には予測できない。とりあえず行動を起こし、結果から原因にさかのぼって物事を説明する。この中で描かれているのは、それが強調されすぎてしまった世界だ。

第三部 赤い繭
この部分は四つの寓話的短編からなる。この四本はいずれも安部公房が初期に書いたものであり、共産主義の影響が色濃く異質な作品群ではあるが、やはり彼独特のシビアな現実や不条理さが描かれている。
・赤い繭
「おれの家が一軒もないのは何故だろう?」という問いに、とんでもない答えを導き出す男。肩書きを剥ぎ取られた人間に対して、世間の顔という顔が、冷たい壁になる。弾き出された男は足もとからほつれ、やがてほつれた糸に包まれ、魂だけの存在となってしまう。肉体と引き換えに“繭の家”を手に入れた男は、ほの赤く発光しながら彷徨い続ける。
・洪 水
ある日、労働者の液化現象が次々生じる。底辺から、上流階級へとそれは広がり、最後は狡猾なノアまで呑み込まれ、第二の洪水によって人類は絶滅する。「赤い繭」ではほつれ「洪水」ではとろける人間。お山のてっぺんを目指すのはいいが、均衡を崩し、流れを堰き止めてはならないという警鐘だろうか。途中「ノアの方舟」が登場し沈没する場面は、後年の「方舟さくら丸」のテーマに通じているのかもしれない。
◆魔法のチョーク
ある貧しい画家が不思議なチョークを手に入れる。壁に描いた物体が画家の部屋の中のみで実体化するのだ。画家は食料をはじめ、ミス・ニッポンの女性をも実体化する。しかし、幸せな話で終わらないのが安部作品だ。嫌な予感通りの結末が待ち受けている。身体中、壁とチョークの成分でいっぱいになり、ついに壁と同化してしまうアルゴン君。ざらざらと堆積してゆく閉塞感は「砂の女」を彷彿とさせる。
◆事 業
巨大鼠の量産を手がけたソーセージ工場で、ついに人肉ソーセージの加工が開始された。地球規模で人口増加と食糧不足が進行するという設定。ブラックジョークだと笑い飛ばすことができない後味の悪さが残る。

この作品を通じて考えさせられることは、壁の性質であり、壁の概念である。壁とは何か?どういうものなのか?作品を読むうちに、壁とは物体でもなく、物質でもなく、特定の性質を有する概念であることに気づかされる。その性質とは、人間を阻む性質である。人間は壁のこちら側や壁の向こう側については考えるが、壁そのものについてはあまり考えない。その“壁”そのものを理解することが、難解だと言われる安部公房の作品を理解することに繋がっていくのではないだろうか。

安部公房の作品は怖い。それはホラーのような怖さではなく、喪失に似た、深夜一人でいる時に不意に襲われるような恐怖だ。明確な形を持った恐怖は描かれないが、読み進めるうちに怖くなっていく。100%ありえないとは言い切れないような、非現実的な出来事が展開するのだが、彼はなぜそのような発想をすることが出来たのだろうか。「笑う月」という短編集の中で安部公房は「夢をそのまま小説にできるか」という考察を行っている。結論としては、夢を直に小説化するのは難しいが、芸術活動に重要なヒントを与えてくれる。そこで彼は、枕もとにメモ帳を置いて夢を見たらすぐ書き留められるようにした。目覚めてしばらくすると、夢の記憶は指の間からこぼれ落ちる砂のように逃げていく。それを文字で残そうという試みだ。しかし、これでも夢の大部分は逃げていってしまう。そこで彼は記録装置をメモ帳からカセットデッキに変えたと書いている。
“夢”の“夢性”とは何だろうか?無意味でありながらも妙にリアルで、必死で捕まえておかなければ煙のように消えてしまいそうな不安定な感覚。それを記録し、物語として再構成するという作業は相当困難だろう。不安感を掻き立てられる不気味さや、独特な登場人物と主人公の心理描写、独自の言語表現で夢そのものを立ち現せてみせようとする夢の捕獲の成果は、まるで真夏の白昼に素面で視る、目も眩むような“夢”そのもののような感覚を私たちに与えるのである。


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