本:多くを教えてくれる

“普通”という鎧を脱ぎ捨てありのままの自分で生きる

「ベロニカは死ぬことにした」

パウロ・コエーリョ



 ベロニカは全てを手にしていた。聡明さ、美しさ、24歳という若さ、愛情溢れる家族、素敵なボーイフレンド。しかし彼女は幸せではなかった。同じことを繰り返しているうちに若さは失われ、ただ皺だけが増えていく。そんな人生は耐えられない。そして睡眠薬を大量に飲んだ。
目覚めると、そこは精神病院(ヴィレットと呼ばれている)でベロニカはひどく落胆した。
このまま普通に仕事に戻り、普通に恋愛し、普通に結婚して子どもを産み、夫の浮気も普通のことだと慣れてしまい、普通の中年女の例に漏れず肥え太ってゆく…彼女には手に取るように自分の人生が見通せた。早く体力を回復して今度こそ自殺を成功させなければと、彼女は焦った。
だが、思いがけないことが起こる。ヴィレットの医師、イゴールがベロニカに「五日以内、長くて一週間で死ぬ。」と告げたのだ。服用した薬物による昏睡状態が心臓に回復不能のダメージを与えたのだという。
ベロニカにとって、死は自ら選び取るものであったはずなのだ。灰色に塗り込められた人生だと思っていたのに、死という完全な黒を見せつけられた瞬間、色のない世界にコントラストが生まれた。ベロニカは「人生でしたいことをほとんどやり遂げた」と思っていたが、それは両親が自分に望むであろうと思った人生であり、彼女は他人の人生を生きていたに過ぎなかった。それに気づいたベロニカは本当の自分を探し始める。
死へのタイムリミットが決まっているベロニカの存在は、ヴィレットの患者たちにも様々な影響を及ぼす。重いうつを患った主婦、パニック障害に苦しむ元女性弁護士、多重人格症と診断された若い男性。彼らと触れ合ううちに彼女の中で何かが変わり始める。そして、ベロニカが気づいた人生の秘密とは―。
 ベロニカが余命宣告をされた時点で大抵の人は気づくだろうが、この余命宣告は嘘である。死への意識が生きる意識への大きな力添えになることを証明するために、イゴール医師が彼女を利用したのだ。そして結果はイゴール医師の期待通りとなった。イゴール医師が語るタイプライターの話はとても印象に残る。
現在パソコンなどのキーボードに採用されているのは「QWERTY配列」(アルファベットキーの一列目の並び方でそう呼ばれる)だが、昔のタイプライターは別のキー配列だった。ところが、タイピストがあまりにも速く打つので機械が壊れてしまった。そこで、キーを「より打ちにくく」なるように並べ変えたものが現在もそのまま使われているのだという。しかし、世界標準になってしまったものを再び変えるのは容易ではない。イゴール医師はこの話になぞらえて、 “狂気”について話す。
「人はおのおの個性的で、それぞれの才能、本能、楽しみ方、そして冒険への欲求を持っている。ところが、社会は常に、我々にある集合的な行動を強制する。でも人は、なぜそんな行動を取らなければならないのかなんて考えもしないんだ。タイピストが、QWERTY式キーボードが唯一無二ということを受け入れたのと同じように、人はただ受け入れるだけなんだ。(中略)」
 “普通”というのは、定形として存在しているのではなく、不特定多数の人がそうであると思い込んでいる実体のないものだ。世の中は“普通”であることを求めるが、その“普通”というものは大多数の他人を平均化した不自然なものでしかない。それなのに“普通”からはみ出すと“狂っている”とみなされる。社会にはどんどんルールが増え、互いにそのルールを守っているか監視し合い、問題が起こると責任の所在を追求して糾弾する。人はみな普通のラインからはみ出さないように、無難に生きようとする。そんな生き方に抑圧を感じない人の方が異常なのなのではないか、正常と狂気の境界は曖昧で、本当はどちらが狂っているのか分からないのではないか…本書にはそんな問いかけも織り込まれているように感じる。
 作者のパウロ・コエーリョは、ブラジルで作詞家として名声を得、その後ジャーナリスト、TV脚本家として活躍。その後、小説を書く決心をする。そして1988年に発表した「アルケミスト」が世界的なベストセラーとなり、38ヵ国以上の言語に翻訳され、世界各国の文学賞を受賞。普遍的な問いと個人のドラマを織り合わせた物語を描き、現代において最も影響力のある作家の一人と言われている。
 人間は、他人と違うことを恐れる生き物だ。パウロ・コエーリョは言う。
「人が自分の本質に逆らうのは、人と違ってもいいという勇気に欠けているからで、(中略)その毒としてよりよく知られる、憂鬱を生み出すんだ」「自分の人生の理想のモデルってのは、どこにあるんだい?あなたの外にある世界にあるものを基準に自分を築こうとしたって無理だ、無駄だ。自分がなりたい自分は、自分の胸奥にしかいないのだ。全ての問いかけは、自分にするんだよ。なぜって、そこには、絶対に間違ってない答えがあるんだから。」
ただ自分の人生を生きて、他の人にもただそれを許せばいい。人生は超シンプル、これがこの作品のメッセージだ。
生きるというのは、決して綺麗なことばかりではない。しかし、痛みを知らずに喜びを感じることは出来ない。他人の評価なんて気にせず本当の自分で限りある生を楽しもう、そんなエネルギーをくれる力のある1冊だ。

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