本:多くを教えてくれる

妄想と現実の狭間を漂う歌人の“初めて”体験記

「現実入門―ほんとにみんなこんなことを?」

穂村弘



 作者の穂村弘は当時42歳(1962年生まれ)、独身で実家住まい。極端に臆病で怠惰な性格のせいで人生の経験値が低く、普通の人が人生の中で普通に経験していることすら知らない。
重大な決断を避けてきたせいで“のび太のようなつるんとした顔”をしている(本人談)。そんな人生経験値の低い作者が美人編集者・サクマさんが提案した初めてイベントにチャレンジし、その体験を綴ったエッセイである。献血をはじめモデルルーム見学、占い、結婚パーティへの出席、合コン、はとバス、ブライダルフェスタ、健康ランド、一日お父さん、競馬などなど。そして最後はびっくりするオチが待っている。
人生経験値という言葉は穂村弘の処女エッセイ集「世界音痴」の中に登場した彼の造語である。他の人々が当たり前に自然にしている行為を自然に行うことが出来ない。器用に適当に生きていけない。そんな“世界音痴”で“人生経験値の低い”人物、それが穂村弘なのだ。
 これだけ読むと、まるで根暗な引きこもりのようだが、穂村弘はニューウェーブ歌人として知られ、エッセイやショートストーリーも書けば、絵本の翻訳や講演もこなす多才な人物だ。
上智大学文学部英文学科を卒業後にシステムエンジニアとして就職、その後総務課へ移り十数年にわたって会社員も経験している。1990年に第1歌集「シンジケート」を刊行して以降、ユーモアあふれる文章やセンスが光る言葉が幅広い世代に支持されている。
本書も基本的に笑えるエッセイ集なのだが、ダメな人が自分のダメさを書いた自虐的なエッセイではない。読んでいて感じるのは穂村弘の感性の鋭さだ。彼は『自分ひとりの世界での甘い空想や望みと現実との間のギャップは、これまでにも散々味わってきたのだが、どうしても慣れるということができない。それはいつでも思いがけなくて、必ずショックを受けてしまう』と言う。
世界にうまく馴染めない自分の情けなさを告白しながら、同時に自分が馴染むことの出来ない世界の違和感を鋭く考察しているのだ。
 もちろん、ユニークな視点、絶妙な言葉使いやネーミングなど、穂村弘ならではのセンスが光っているので「あはは」と声を出して笑ってしまう所もたくさんある。笑いながら(あ、その気持ち分かる)(自分も同じような経験があったなぁ)というものも結構あって、それが嬉しいようなせつないような複雑な気持ちになるのだ。
健康ランドの受付では♪い~ぬは喜び庭かけまわり、私はランドの風呂はいるぅ♪というテーマ曲を歌わされ(入館料が割引になる)、ムームーを着用させられ、そのあまりのベタさっぷりに『私の心のなかのわたせせいぞうが、ばたっと倒れるのがわかった。頑張れせいぞう、ハートカクテル』『私の心のなかの片岡義男が、がくっと膝をつくのがわかった。頑張れ義男、スローなブギにしてくれ』『私の心のなかの村上春樹が泣きっ面になるのがわかった。頑張れ春樹、風の歌を聴け』なんて思っている。
通勤電車で気分が悪くなった時も『ひと口ゲロを垂らしながら、行かないであなた、とすがる女の子のような姿勢でベンチに倒れ込んではあはあはあはあはあはあはあはあはあ』している。本人は笑いごとじゃなかっただろうが、こんな書き方をされると笑うしかない。
考えてみると、31文字で世界を創りあげる歌人なのだから、言葉の使い方が抜群に上手いのは当然なのだ。本書の中には心に残る言葉も数多く登場する。
『僕がひとりぼっちなのは僕がひとりぼっちだから僕はひとりぼっちなのだ』『現実のなかで生きられない人間も、だからといって死んでしまうわけではない。現実とは少しずれた時空間で、ずれたまま生きてゆくのだ』
かと思うと、競馬場で大きなビニール袋いっぱいにメロンパンをぎっしり詰め込んでいる人を“メロンパン星人”と命名してどきどきしたり、ウエディングドレスを着たサクマさんを見て「嫁に来ないか」や「みちのくひとり旅」のフレーズを思い出している。本当に彼の頭の中は穂村ワールドとしか形容しようがないヘンテコで異次元な世界なのだ。
非モテ・不器用・妄想系という印象が強い彼に共感する人も多いが、2005年にさらっと結婚し、ファンに衝撃を与えた。本書に登場する美人編集者と結婚したと思った人もいるようだが、「あとがきにかえて」を読むと、実はサクマさんという存在自体が幻のような書き方をしていて、最後は読者を煙にまいたまま終わる。
 「現実入門」なのに、どこか現実から離れたところに連れて行かれるような穂村ワールド。
読んでいると、エッセイの形式をとったフィクションなのか、フィクションのように見せかけたノンフィクションなのか分からなくなってくる。ダメダメすぎるエピソードは本当かもしれない。でも、そんなダメな自分を前面に押し出し、モテには程遠い自身の生活ぶりを面白おかしく描きながらも、本当の彼にはまた違った一面があるのでは、という気になってくる。
穂村弘のエッセイを読むと、いろんなことを自然にそつなくこなしているように見える人も実はすごく大変な思いをしているんじゃないか、意外とそういう人は多いのかもしれないな、と思えて気持ちが軽くなる。巧みな穂村ワールドに迷い込み、彼と一緒に妄想するのも心地よい。穂村フィルターがかかると世界はヘンテコで優しくなる。穂村弘のダメっぷりに笑わされ、共感し、なんだかほっとできるエッセイである。
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