本:多くを教えてくれる

人間の弱さ、脆さを描いた不朽の名作

「蠅の王」       ウィリアム・ゴールディング
(1911~1993)



ノーベル文学賞受賞者であるイギリス人作家ウィリアム・ゴールディングの代表作。 ゴールディングは、原罪や人間の心に潜む内なるナチズムを作品の主要テーマとする事が多い作家だが、ゴールディング自身も「人間というものは、蜂が蜜を作り出すように、悪を作り出す」動物だと確信しており、自分の心の中を覗き見るだけで全ての邪悪さを知ることができると考えていたという。 ゴールディングは、大学卒業後しばらく演劇などに関った後、教師となった。小説に登場する少年たちにリアリティーがあるのは、この教師としての体験によるものだろう。 しかし1940年、イギリス海軍に入隊したゴールディングは戦場へ駆り出され、ノルマンディー上陸作戦にも加わっている。戦後、彼は再び教師として働き始め、その頃から小説を書き始めるようになった。残虐な戦場体験と、子供たちを教える教師生活。そんな中から、この「蠅の王」は誕生したのだ。 「蠅の王」は1962年にピーター・ブルック監督、1990年にはハリー・フック監督で映画化もされている。スティーブン・キングが本作を読んで吐いたという逸話や、海外ドラマ「LOST」の製作スタッフが大いに参考にしたという話も有名だ。

近未来(小説発表は1950年代)の戦時下、疎開する子供たちの乗った飛行機が撃墜され、不時着した無人島で生活するところから物語は始まる。 無人島に不時着したのは6歳から12歳程度の少年たちだけであった。 島には果実などがふんだんに実り、飢えの心配はない。少年たちはお互いあだ名をつけ合い、島を探検する。高い所に登ると、周りが珊瑚礁に囲まれていることが分かった。 次第にいろいろなことが決まっていった。投票によって少年たちのリーダーとして選ばれた隊長のラーフ、近眼と太っているせいでいじめられっ子だが、賢明で理性的なピギーは、秩序と規律を守って正しく生きようとする。ピギーのメガネを使って火も起こすことができ、生活する上では問題がない。ラーフが見つけたホラ貝は少年たちを招集するために役立ち、彼らは順調に暮らしていく。 ラーフは、救助船に発見されるため火を絶やさないようにして、生活のために小屋を建てようと提案する。皆はそれに賛成し、それぞれの役割や生活のルールを定めていく。しかし、仕事に取りかかると、少年たちは遊んでばかりで自分の役割に責任を持とうとしない。 さらにラーフがリーダーに選ばれたことに嫉妬し、豚を狩ることに執着するジャックが、狩猟隊を結成して秘めていた暴力性を徐々に現わし始める。少年たちは、そんなジャックの狩猟隊へ次々と移っていく。 ラーフとピギーが率いる理性派グループと、ジャックが中心となった、本性のままに生きようとする狩猟グループは次第に対立するようになる。 そのうち、島は何か恐ろしいものに支配されているらしいという話が出るようになり、“得体の知れないもの”の恐怖が皆の心を不安に陥れていく。 ラーフとピギー、そしてジャックとジャックの相棒ロジャーも、島の片隅に実際に何かが居ることを知る。彼らは、その得体の知れないものに殺した豚の首を捧げることにした。それが「蝿の王」である。 黒山のように蝿がたかった豚の首を、彼らはベルゼブルと呼んだ。 そんな中、理性グループのサイモンが、獣を探しに1人で島の奥地へと向かう。そこでサイモンは「蝿の王」は、ひとりひとりの心の中に在るのだと悟る。根源的な虚無と破壊への欲望が人の心には潜んでいると。サイモンは「蝿の王」と戦い、闇を克服する。そして、皆に獣は倒せる事を伝えるために走る。 しかしその時、少年達は獣そのものと化していた…。

ラーフが追い立てられるクライマックスは、臨場感と焦燥感で手に汗握る展開だ。 そして印象的なラスト。救助の船が現れた所で、多少救いのあるラストが用意されているかと思ったが、大人の態度や船の行き先からは、暗い想像しか浮かんでこない。そもそも、少年たちが救いを求めた外の世界では大人たちが戦い、殺し合っているのだ。救出された少年たちが戻る世界は決して平和で安定した社会ではない。文明社会に戻った彼らは、果たしてどんな生き方をするのだろうか。

題名の「蠅の王」=ベルゼブルとは、聖書に登場する悪魔である。小さな無人島で少年達は、支配欲や恐怖心、獲物を追わずにはいられない獣性、といった自分の心の奥底に潜む負の感情を知る。こうした人間が持って生まれた内なる悪が、物語の中では「蠅の王」に象徴されているのだ。 ラーフやピギーが、秩序の象徴とも言うべきホラ貝やのろしに執着したのも、ジャックたちが体にペインティングを施し宗教儀式のようなものを行ったのも、すべては恐怖心が根源にあったからだろう。 大人不在の孤島で秩序は乱れ、そこに少年特有の複雑さも混じって原初的な獣性が顕わになってくる。理性を保とうとする少年たちと、本能に従う少年たち。何が正しくて何が間違っているのか。それを判断できる者はどこにもいない。 そして本当に怖いのは、自分の意思を持たないまま洗脳され流される、ジャックの狩猟隊に移って行った少年たちのような人間ではないだろうか。

いつの時代も、秩序や理性はあまりに脆く崩れやすい。そして、恐怖がいかに人間を変貌させるか、人間とはなんと流されやすく洗脳されやすい危険を孕んでいるか、という事をゴールディングは余すところなく描いている。 本作は作者がイギリス人なので、宗教観や個人主義的な考え方が基本的に違うが、もしこれが日本人だったら…とか、少女だけだったら…老人だけだったら…と、さまざまな想像も膨らむ。 孤島で起こる集団生活の崩壊を描いた作品は結構多いが、J・G・バラードの「楽園への疾走」では、女性たちが島を崩壊に導いてゆく。桐野夏生の「東京島」は男31人と、女1人がサバイバルを繰り広げる物語である。また、アニメ「無限のリヴァイアス」や映画「バトル・ロワイヤル」も本作の影響を受けていると言われているので、いろいろな作品を鑑賞して比べてみるのも楽しいかもしれない。
本トップ