本:多くを教えてくれる
不思議な余韻を残す独特の世界

ユリシーズ」 栗田有起
(1972〜)





作者の栗田有起は1972年生まれ、長崎県出身。名古屋外国語大学を卒業後、製薬会社広報室、ホテルフロント勤務を経て2002年「ハミザベス」で第26回すばる文学賞を受賞し小説家デビューを果たす。
その後「お縫い子テルミー」「オテル・モル」そして「マルコの夢」の3作が芥川賞候補に選出されている注目度の高い作家である。

本書に収録されているのは「ハミザベス」と「豆姉妹」という2つの中編。
表題の「ハミザベス」という不思議なタイトルは、ハムスターの名前だ。主人公は20歳のまちる。彼女は母親と二人で暮らしていたが、ある日死んだと聞かされてきた父親(平田)の訃報が舞い込み、遺産として高層マンションの一室とハムスターを受け取ることになる。
まちるは、ハミザベスと名付けたハムスターと一緒に高層マンションでひとり暮らしを始める。やがて父親の知り合いだった女性を通じて、平田が本当の父親ではなかったことを知る。
ひとり暮らしを始めたことで、ひっそりとつましく穏やかな暮らしをしていた母娘の間にも変化が生じる。まちるも、更年期障害に苦しむ母も、二人だけの共生の世界から不器用ではあるが少しずつ前を向いて自立していく。
物語の中盤、別れた夫(平田)は実はまちるの父親ではないと告白する母親が、その理由として「彼の玉、畳一畳くらいあったの」と告白する。一体何を書いてるんだこの作者は、と思わず笑ってしまうシュールな展開なのだが、それに対して、「畳一畳?折りたたむにしても、かなりふくらんじゃうんじゃないの?」と答えるまちる。そこですか?と、突っ込みたくなるのだが、物語は一貫してこのような淡々としたトーンと、そこはかとない面白さ、登場人物たちの絶妙な会話によって展開していく。その世界が奇妙に心地良くて、どんどん引き込まれてしまうのだ。

もうひとつの「豆姉妹」、この物語も、二人で一人だった姉との共生から自立していく主人公の姿を描いている。
高校生の末美は、7歳上の姉と双子のようにそっくりな容姿をしている。まるで時間差の双子のようだ。姉は妹であり、妹は姉である―そこには、完全なる一体感が存在していた。もっと早い段階で感じるべき“個”の確立というものを、末美は知らないまま過ごしていた。
ところが、肛門科に勤めて3年の姉が突然「やってることは大差ないのに給料は3倍だから」という理由で看護師からSMの女王様に転職してしまう。そんな姉に戸惑いを隠せない末美は、ある日衝動的に髪型をアフロにする。
それがPTAで問題となり、『なぜ私はアフロにするのか』というスピーチをしなければならない羽目になってしまう。末美はスピーチでこう語る「…現在のこの状態、面白いけどちょっと間違っているこの状態は、いずれ改善されるだろうと思います。ですが今は、この体験を大切にしたいと思っています。というのも、開き直るわけではありませんが、だって、せいぜい、アフロです。アフロは重大な過失と言えるでしょうか。気持ちよくなりたいとか、得をしたいとか、そんな理由でやりたいことをやって、他人を傷つけたらいけません。常識です。でもアフロヘアは、見た目ちょっと変かもしれないけど、他人に危険を及ぼすものではありません。(中略)…これからは、ちょっと大げさかもしれませんが、アフロもアンチアフロも共生できる学校環境を、がんばって作ってゆければいいな、と思います。」
この演説シーンは、自分自身はっきりした理由も分からないまま突然アフロにしてしまう末美のような、迷ったり悩んだりした挙句に意味不明なことをやらかしてしまう人間を大きく包み込むような優しさに満ちていて、好きなシーンのひとつだ。
他にも、突然押しかけてきた義理の弟や、担任の教師など一風変わった登場人物たちとの会話を中心に物語は続くのだが、ある夜、姉妹と弟で滝を見に出かけるシーンで突然驚きの展開が起こる。
感心するのは、SM嬢として働く姉や、オネエ言葉の弟、突然アフロにしてしまう主人公という奇抜な設定でありながら、青春小説としてもきちんと成立しているところだ。登場人物は、何があっても常に淡々としていて、大騒ぎになっても不思議じゃない出来事をさらりと受け容れ、普通に毎日を送る。それが逆に本当にありそうなリアルさを感じさせるのだ。

本書の登場人物たちは、いわゆる“美しい家族愛”と言うものと無縁だ。どちらの主人公も奇妙で複雑な家族関係を背景に、いろいろ変化していく周囲の状況に流されたりするのだが、決して自分を見失うことはない。他の作品にも共通しているのだが、栗田有起の小説の登場人物たちは、大抵のことでは取り乱さない。何か大切なものが変わっていく中でも逃げたり投げ出したりしないで生きている。
何か受け容れるより何かから出て行くことのほうが難しい。そんな自立することの大変さが、シュールなコメディのような展開とうまく絡み合って描かれている。

登場人物たちの独特の個性と、とらえどころのない不思議な作風が栗田有起の魅力だろう。するすると読めるのだが、読後に思わず顔が綻んでしまうような、不思議と癒される作品である。
唐突に展開するシュールな設定、そしてあっさり終わってしまうラスト。人によっては物足りなく感じるかもしれないが、ふわりと心地良い栗田ワールドをぜひ一度体感してみていただきたい。


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