本:多くを教えてくれる

意外な作者像が発見できる名随筆

「方丈記」

鴨長明



 「方丈記」は鎌倉時代中期(1212年)に成立した鴨長明による随筆である。100年後に書かれた清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」と併せ日本三大随筆と言われている。
高校時代、古文の授業で習った「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」という有名な冒頭を覚えている人も多いだろう。しかし、この方丈記の具体的な内容や、作者の鴨長明がどんな人物だったかを知っている人は少ないのではないだろうか。
 「方丈記」の前半は5大災厄について記されている。
安元の大火(1177年)、治承の辻風(1180年)、福原遷都(1180年)、養和の飢饉(1181年~1182年)、元暦の地震(1183年)という天災・人災を体験した長明は、災害についてジャーナリスティックな視点で詳細に描写しており、方丈記は当時の被害状況を知るための貴重な資料にもなっているという。また、災害直後は人間なんてちっぽけなものだ、これからは慎ましく生きようとみんな言うけれど、月日が経つと忘れてしまうという事も書いている。これは現代の私たちにも耳が痛い話だ。
 さらに「方丈記」の後半を読むと、鴨長明の意外な人物像に驚かされる。
長明は、京都の下鴨神社の神官で正禰宜惣管(しょうねぎそうかん)だった鴨長継(かものながつぐ)の次男として1155年に生まれた。正禰宜惣管とは、神社の最高責任者である。御曹司として何不自由なく育てられ、7歳の時には二条天皇の中宮・高松院の愛護を受け、従五位下に除せられている。しかし、長明が18歳の頃に父親が急死。後ろ盾を失くした長明は、後継者争いに敗れ、親戚にその座を奪われてしまう。
後見人も後援者もなく、神職としての道が閉ざされた長明は孤立し“籠もりおる”ばかりだったという。現在の言葉で言うと“引きこもりのニート”だ。祖母の家で30歳過ぎまで引きこもって和歌を詠んだり琵琶を弾いて過ごすが、家宅相続のいざこざで祖母の家も追い出されてしまう。そして、鴨川の近くに小さな家を構えた。
長明33歳の春、転機が訪れる。藤原俊成が勅撰した「千載和歌集」に、和歌が一首選ばれたのだ。
長明を導いたのは後鳥羽上皇だった。後鳥羽上皇によって和歌所寄人という役職(和歌の選定作業などを行う仕事)にも就いた。当時の仕事ぶりは真面目だったようで、源家長が「源家長日記」という書物で長明のことを褒めている。しかし、元御曹司といえども、宮廷という世界では庶民にすぎない。今度は身分の違いが長明を苦しめた。そして、もうひとつ。長明は琵琶の師匠である中原有安から秘曲を授けられていたが、師の死後に公の場でその秘曲を弾いたという。それが楽所預の藤原孝道の耳に入り厳しい咎めを受けるという事件を起こしている。
さらに追い打ちをかける事件が起こる。下鴨神社のお膝元である河合社(ただすのやしろ)で神主の欠員が出た時のこと。長明の働きぶりを高く評価していた後鳥羽上皇はお墨付きで神主に任命すると長明に約束する。しかし、親戚筋から「和歌にかまけて神主の修行を怠ってきた人間に神主が務まるわけがない」と横槍が入る。さすがの後鳥羽上皇も神社との関係を無下にするわけにもいかず、長明に「河合神社は諦めてほしい。そのかわり新しい神社を建ててやろう。そこの神主になればいい」と代案を提案する。これは破格と言える条件だ。しかし、失意の長明は失踪してしまうのだ。しかも、彼を発見した時には出家してしまっていた。長明の仕事ぶりを評価していた源家長はこの時の長明について「うつし心ならずさへおぼえ侍りし(気が狂ったんじゃないかと思った)」と記している。
 確かに長明は激動の時代に生まれてしまった。世の中も人の心も荒れ、住居も財産も災害のたびに失われる。そんな過酷な時代に、父という後ろ盾を亡くした長明は不運だったと言えるだろう。しかし外的な要因だけでなく、彼自身が神職をおろそかにし、和歌や琵琶にうつつを抜かしていたのも事実だ。その証拠に長明の官位は7歳の時の従五位下のまま一切昇進していない。和歌と琵琶ばかりに興じ職務に怠慢だった長明の評判が悪いのは当然なのだ。しかも、芸術家肌の長明はとても繊細で、ときどき「死にたい」と口走って涙を流していたという。彼の人生を辿ると“温室育ちの元おぼっちゃま”という長明像が垣間見えてくる。
野心家でも策謀家でもない長明は、次々と襲う天変地異や平家の興亡、跡目争いの挫折から世の無常を感じずにはいられなかったのだろう。
 出家した長明は比叡山の麓に移り住み、和歌に集中する。そして、翌年に勅撰された「新古今和歌集」に10首選ばれるという快挙を成し遂げる。
しかし、念仏を唱えるためだけに来たわけじゃないという態度は周囲の修行僧から反感も買った。長明は居心地が悪くなると比叡山の周りを転々と移り住んだ。そのとき折り畳み式の栖(すみか)“方丈の庵”を発案する。方丈とは四畳半の広さの部屋のこと。3メートル四方の庵は自ら設計し、解体すると荷車二台で運搬できるという画期的なシステムだった。(わざわざ折りたたみ式や組立て式の琴や琵琶も所有していた)
そして53歳の時、比叡山を離れ日野南山に居を構える。日野南山では人目を気にして衣服にこだわる必要もないし、気乗りしなければ修行もサボれる。しかも山には食べ物がいくらでもある。人に煩わされず、好きなだけ和歌を詠み、琵琶を弾くことができる草庵の暮らしを深く愛していった。しかし、ここで長明は一つの矛盾に気づく。自分はいつの間にか方丈の庵に執着してしまっていた。しかも、庵には琵琶もあれば和歌もある。出家していながら“捨てられないもの”がまだまだあるではないか。しかも都に顔を出すと、自分のみすぼらしい身なりが恥ずかしくてしょうがない。長明はそんな自分を『汝、姿は聖人にて、心は濁りに染みる』と記している。
そして、方丈記はそのまま唐突に幕を閉じる。『心、さらに答うることなし。ただ、かたわらに舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ』(心に答えはまったくない。ただ阿弥陀仏と三回唱えて終わりにしよう)と。
長明は迷い続ける自分をさらけ出したまま「方丈記」を閉じているのだ。
そして、その4年後の建保4年(1216年)62歳で亡くなったと推定されている。
 鴨長明という人物は、都で成功できず、出家も中途半端。邪念を捨てきれないまま人生を送った。
1000年近い過去に生き、歴史に名を残す人物なのに、意外にも彼は人間臭く憎めないキャラクターだったのだ。長明が綴った人間関係の煩わしさや悩みは現在の私たちとほとんど変わらない。
人生なんて浮かんでは消える泡(うたかた)のようなものなのに、欲にまみれ、わびさびを気取り、人間は滑稽だ。と言いつつ自分も往生際悪いけどね、という長明の自嘲がどこからか聞こえてくるようである。
本トップ