本:多くを教えてくれる

40年ぶりに発売された完成版

「 かもめのジョナサン 完成版」    リチャード・バック
五木寛之創・訳



 リチャード・バックが飛行機事故を起こしたというニュースに衝撃を受けたのは2012年8月31日のことだった。自家用飛行機でワシントン州サンフアン島を飛行中、電線に引っかかって飛行機が大破し、重傷を負ったという。一時は、深刻な状態だったが、持ち直しているというニュースに安堵し、それと同時に(彼はまだ空を飛んでいたんだなぁ)と思い、嬉しかった。
そして今年の2月、従来の1~3章に第4章を加えた「かもめのジョナサンの完成版」が出版されるというニュースに再び驚かされた。

「完成版への序文」によると、第4章も執筆時に書き上げられていたが、リチャード・バックがあえて外したのだという。「私はこんな物語の結末を信じられなかった。私の考えていたことは3章までで十分語り尽されていた。4章はいらない。喜びを絞殺するような不毛の空や卑しい言葉を、わざわざ印刷する必要はない。私はジョナサンの物語にこの結末が必要だとは信じられず、どこかへ置きっぱなしにした」と。そして、その存在すら忘れてしまっていた。ところが最近になって、くしゃくしゃになってタイプの文字も消えかかっていた原稿を妻が発見し、それを再読したリチャード・バック本人が出版を決意したという。

ヒッピーのバイブルとしても名高い「かもめのジョナサン」は、主人公のカモメ、ジョナサン・リヴィングストンが自由に飛ぶことに喜びを見いだし、飛行を追求する姿を寓話的に描いた物語だ。私自身リチャード・バックの作品は好きなので、この本も数十年前に読んだのだが、あまり好きになれなかった。理想的な境地をひたすら目指すジョナサンの生き方は素晴らしいと思うのだが、食べることは生きる目的に値しないとでも言うような描き方に、平凡でも一生懸命生きている者を軽視しているような高慢さを感じてしまったのだ。また、“通俗的なレベルの人間には理解できないだろう”的な事を言う熱狂的なジョナサン信者も苦手だし、宗教的な匂いがする部分にも違和感を感じていた。
旧版の翻訳が刊行された40年前、訳者あとがきで五木寛之はこの作品に疑義を呈し、怒った読者があとがきの頁を破り捨てたという逸話がある。今回の完成版を訳し終えた五木氏は「ああ、バックはこれを書きたかったのかと、長年の胸のつかえが下りた気がした」と述べている。
その言葉通り、この最終章によって従来思わせぶりだった箇所が結末への伏線だった事が分かり、きれいに物語が繋がった印象を受けた。特にラスト、ああ、そういう事だったのか、という終わり方には素直に感動した。

今回追加された最終章には、ジョナサンがいなくなってからの世界が描かれている。弟子のカモメたちは次第にジョナサンを神格化し、教えを形骸化させていく。ジョナサンのメッセージは伝説となってしまった。教えのほぼすべての内容が日常の営みから遠ざけられ、普通のカモメには無縁なものになっていった。そして、ジョナサンの実在すら疑う者も出てきた。
やがてジョナサンの名の下で確立された偽善的な迷信と儀式は強迫観念になった。
そんな信仰にアンソニーを始めとする若いカモメたちが疑問を投げかけた。彼らは偉大なジョナサンの名を借りた儀式や儀礼を拒み、日常生活のむなしさに悲しみを覚えながらも、自らには正直で、事実にまっすぐ向き合える勇気があった。やがて時とともに、そのような若いカモメが次第に増えていく…。

“誰に支持されなくとも自分の信じた道を行きなさい”というメッセージは、発表当時は新鮮だったのだろう。しかし、自由に生きることが当り前になっている現代では、その新鮮さも失われているのではないだろうか。そんな今という時代に、メッセージの形骸化や神秘を崇める虚しさ、信仰と集団の滑稽さを描いた展開は、ぴったり合っているように思える。
最終章が加わることによって、この物語はより味わいが深まり、希望も強く輝いているような印象を受けた。

「かもめのジョナサン」は、読み手次第でいかようにも解釈できるので、本書からどんな意味を見いだすかも読者次第だろう。あまり理屈っぽい解釈をせず、単純におとぎ話として読んでもいいし、スピリチュアルな自己啓発書と捉えることも可能だ。私自身は数十年ぶりに再読して、ジョナサンが求めていたもの、彼の教えは、そんなに難しいものではなく、自由も真実も本当は自分のすぐ隣にあるんだよ、という優しさを感じることが出来た。
本の中には、自分の生き方に悩んでいる時に読むのと、その時期を通り過ぎてから読むのとでは印象が全然違うタイプのものがある。この本は、まさにそのタイプの作品だ。
ジョナサンは当時も今もこれからも変わることはない。変わるのは“自分の心”なのだ。そういう意味で、「かもめのジョナサン」は、その時の自己の心の在り様を映す鏡のような作品だと言えるだろう。
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