本:多くを教えてくれる

味わい深く、穏やかな気持ちになれる名随筆

柿の種」  寺田寅彦
(1878~1935)





「柿の種」は、その書名が示すように、小さな種のような話を連ねた寺田寅彦の随筆集である。
1920年~1935年にわたって友人の松根東洋城(まつねとうようじょう)が主宰する俳句雑誌「渋柿」の巻頭に掲載された短文を1冊にまとめたものである。冒頭にある
“棄てた一粒の柿の種 生えるも生えぬも 甘いも渋いも 畑の土のよしあし”という寺田寅彦の句からこの書名がつけられたという。どれも偶然目にした植物や動物や人間、思い浮かんだこと、世相などを綴った短い文章だが、読後に深い余韻を残すものばかりだ。

著者の願いとある “なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のあるときに、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい”という言葉の通り、ひとつひとつをじっくり噛み締めるように読みたい随筆集である。
本書のはじめに次のような文がある。
“日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。
このガラスは、初めから曇っていることもある。
生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。
二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。
それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。
穴を見つけても通れない人もある。
それは、あまりからだが肥り過ぎているために……。
しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになること
がある。
まれに、きわめてまれに、天の焔を取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔かしてしまう人がある。”

そして別の章では、鶯がガラス戸にぶつかって死んだのを見て、鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かったと述べ、人間の行路にもこの「ガラス戸」のようなものがあり、失敗する人はみんな目の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人だ、という話印象深い話も書いている。
人間にとって、自分にとっての「ガラス板」とは何か、途中で本を伏せて静かに思いを巡らせたい気持ちにさせられる。
他にも哀しい話、怖い話、ほのぼのとした話、少し残酷な話もある。忠犬ハチ公が生きていて、関東大震災が起こり、足尾鉱毒事件のあった時代を生きた寺田寅彦。彼が綴る文章は短いが、そこに込められている意味は深い。著者が言うように、心に余裕のある時にゆっくり時間をかけて読みたい本である。

寺田寅彦は1878年11月28日、現在の東京都千代田区に生まれた。この日が寅年の寅の日だったため寅彦と名づけられた。父・利正が高知県の士族だったこともあり、3歳で高知へ転居。中学時代まで高知で過ごす。寅彦は、この高知での生活で自然と触れ合う楽しみを知る。
その後、熊本の第五高等学校に入学。そこで物理教師・田丸卓郎に出会い、自然科学への道を志すことになる。更に、当時この第五高等学校の英語教師を務めていた夏目漱石とも出会う。寅彦は漱石のもとで多くのことを学び、俳句などの文学の道でも才能を開花させていく。
高校を卒業すると、東京帝国大学理科大学に入学し、さらに大学院へと進学。研究に没頭する日々を送る。ちょうどその頃イギリス留学を終えた夏目漱石が帝国大学で講師を務めていた。寅彦は再び漱石のもとで学び、正岡子規らとも交流を深める。そして吉村冬彦の筆名で、「団栗(どんぐり)」「竜舌蘭(やぶこうじ)」などの写生文を「ホトトギス」に寄稿。さらに寅彦の興味の対象は、音楽、映画、水彩画などに多岐に亘り、その視野を広げていくことになる。
漱石の「我輩は猫である」に登場する水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八は、いずれも寅彦がモデルだと言われている。漱石と寅彦の関係は普通の師匠と弟子の関係とは異なり、科学や西洋音楽など寅彦の方が長けている分野においては、漱石が教えを請うこともあったという。

研究大学院を卒業後、寅彦は帝国大理科大学の助教授となり、2年間のドイツ留学を経験した後、1916年に教授に就任する。翌年には地球物理学関連の研究や「X線の結晶透過」についての発表を行った。また、“金平糖の角の研究”や“ひび割れの研究”など「形の物理学」分野で先駆的な研究も行っていて、これら身辺の物理現象の研究は「寺田物理学」の名を得ている。寅彦は理化学研究所、航空研究所、地震研究所の各所員を兼任し、各分野で活躍。さらには文学論、映画論、科学方法論など、多くの随筆を残した。
しかし1935年(昭和10年)12月31日、転移性骨腫瘍により病没。57歳という早すぎる死だった。

“天災は忘れた頃にやってくる”この有名な言葉は、直接記録としては残っていないが、寺田寅彦の言葉だと言われている。1927年、関東大震災が発生した時、帝国大学で教授を務めていた寅彦は調査にあたり、その中で“昔の人も同じ経験をしている。私たちがそれを忘れて好き勝手にしているからこういうことになったのだ”と友人に語ったという。
寺田寅彦は、科学者でありながら科学万能主義者ではなかった。科学で見えるものとそうでないものの境を知る日本的感性を持っていた。きっと、こういう人物を本当の教養人というのだろう。
「天災と国防」という昭和9年の作品で、文明が進めば進むほど電気、鉄道、建造物などが構築されるから自然の暴威による災害が激烈さを増すと指摘し、前の災害を忘れやすいから、軍備よりも「科学的国防の常備軍」を作り、日本の災害にあった工学を導入することを主張していた。この時の彼の主張を国が真摯に受け止めていれば…と思わずにはいられない。
何度も同じ過ちを繰り返さないためにも、私たちは寺田寅彦の警鐘をしっかりと胸に留めておかなければならないのではないだろうか。

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