本:多くを教えてくれる

圧倒的な難解さで奇書と称される伝説の作品

「黒死館殺人事件」

小栗虫太郎



 「黒死館殺人事件」は夢野久作の「ドグラ・マグラ」、中井英夫の「虚無への供物」と並んで、日本探偵小説の三大奇書に数えられている作品である。
アンチミステリーの代表格としても有名であり、江戸川乱歩は『この一作によって世界の探偵小説を打ち切ろうとしたのではないかと思われるほどの凄愴なる気魄がこもっている』と評した。ありとあらゆる衒学(げんがく/学問や知識をひけらかすこと)が飛び交い、難解さでは他に類を見ないと言われている本作は、事件の真相がどうでもよくなってしまうミステリーでもあり、澁澤龍彦も文庫版の解説で犯人の名前をはっきり書いているほどである。
 興味を持った人のために大まかなあらすじを説明すると、舞台は黒死館という不気味な洋館である。かつて黒死病(ペスト)の死者を詰め込んだ城館に似ているというのが由来の黒死館は医学博士・振矢木算哲が建て、算哲亡きあと息子の旗太郎が継いでいる。館に住む4人の外国人弦楽四重奏団は、幼いころ算哲によって連れてこられ、それ以来一度も館から出ることなく40年も暮らしている。他にも血縁者、執事、図書係、秘書、召使いが住んでいる黒死館では過去に三度の変死事件があり、その最後が算哲の自殺だった。ある日、弦楽四重奏団のひとりダンネベルク夫人が毒殺されたことをきっかけに、住人がひとりまたひとりとゲーテの「ファウスト」に見立てた不可解な死を遂げていく。
当局は素人探偵・法水麟太郎(のりみずりんたろう)に捜査を要請する。
法水が得意の衒学を駆使して関係者を尋問していく中で、算哲が死の直前に四重奏団の4人を養子入籍し、遺産相続権を与えていたことが分かる。
そんな中、法水は鐘鳴器の音の違いで給仕長が殺されていることを見抜く。鐘鳴器の演奏室で失神していた秘書の紙谷伸子は、気がついたとき自分の名を“降矢木伸子”と書き、一種のヒステリーと診断される。法水は、遺言状の管理者である押鐘童吉を巧みに誘導し、算哲の遺言状を公開させるが、それは法水の想像とは異なる平凡な内容であった。しかし遺言状には、算哲が発表直前に燃やし捨てた一枚があったという。
チェロ奏者のレヴェズは、遺産相続から外された姪の津多子が犯人だと主張するが、法水はヴィオラ奏者のクリヴォフが犯人だと推論する。しかし演奏会で照明が消えた間にクリヴォフが殺され、続いてレヴェズが絞殺死体で見つかる。レヴェズの喉に残っていたのは算哲の指紋だった。次に図書係・久我鎮子の身元が判明する。鎮子から4人の西洋人がここに連れてこられた本当の理由を聞いた法水は旗太郎が犯人だと指摘し、伸子にプロポーズともとれる言葉をかける。しかし翌日、伸子が銃で撃たれて死んでしまう。伸子の葬儀の日、法水はついに真犯人を指摘する。真犯人の動機と正体は、算哲が燃やしたはずの遺言状の一枚が写真乾板に残っていたため明らかになったのであった。
 “不気味な洋館で暮らす呪われた一族が、遺産がらみの連続殺人事件に巻き込まれる”という筋立てはミステリーの王道なのだが、そこは三大奇書に数えられているだけあって、さっぱり意味が分からない。黒死館に住む一族が “天正遣欧少年使節千々石ミゲルが、カテリナ・ディ・メディチの隠し子と言われる妖妃ビアンカ・カペルロと密通してより、呪われた血統を連ねる神聖家族・降矢木家”という設定からすでに混乱。
膨大な知識を持った犯人が殺人を犯し、暗号を残す。それを法水麟太郎が医学、薬学、神学、天文学、語学、中世歴史学、心理学、詩学などの衒学を駆使して解決する。ありとあらゆる衒学が延々と披露されるので、読んでいるうちに今どういう状況だったのか、法水は何について喋っていたのか分からなくなってしまう。
 作者の小栗虫太郎は明治34年、東京の神田旅籠町で出生。本名は栄次郎。生家は、三百年続く酒問屋の分家であり、虫太郎はその次男にあたる。
虫太郎は父・良吉50歳の時の子で、良吉は虫太郎を溺愛した。虫太郎は大正2年に京華中学商業科へ入学。在学中から語学の才能はずば抜けていたという。中学卒業後は進学せず、樋口電機商会に会計事務として就職。その後、良吉の遺産が虫太郎のものになったことと、勤めが面白くなかったという動機が重なり大正11年に印刷会社を興すが、探偵小説の執筆を始めたことや、株式投資を始めたことが災いして大正15年には閉鎖。この4年間に「紅殻駱駝の秘密」「魔童子」「源内焼六術和尚」「ある検事の遺書」を書いている。
昭和8年、小栗虫太郎の名で「完全犯罪」を発表し、世間から注目されるまで虫太郎一家は極貧に喘いだ。昭和9年「黒死館殺人事件」の連載を開始。独特の作風で虫太郎の作品は一世を風靡した。
昭和16年、陸軍報道班員としてマレーに赴任、翌年帰国する。終戦後の昭和21年、作家活動を再開しようとした矢先の2月10日、45歳という若さで急逝する。メチルアルコールを飲んだことによる中毒とも伝えられたが、死因は脳溢血であった。
 この難解な「黒死館殺人事件」を読破するコツは、衒学部分を真面目に読まず、黒死館の絢爛豪華な内装や事件現場を脳内で映像化することだ。算哲の亡き妻テレーズを模して作られた等身大の自動人形や古代の魔導書、死刑囚の手首を切り落とし屍蝋化させて燭台にした“栄光の手”などの小道具も怪奇ファンは心をくすぐられるだろう。また、死体が光を放っていたり、自動人形が深夜に歩き回っていたり、こういう猟奇的な世界が好きな人にはワクワクする魅力がある。
衒学趣味のデパートとも言える「黒死館」。オマージュされることも多い作品なので、ミステリー好きならぜひ読んでおきたい一冊である。完読すれば、なかなか現実に戻れない不思議な浮遊感を味わえることだろう。
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