本:多くを教えてくれる

現代を生きるための新しい概念

「空白を満たしなさい」

平野啓一郎



 「…落ちる!」真っ暗闇の中で恐怖に駆られた瞬間、主人公の土屋徹生はパイプ椅子の上で目を覚ます。会社の5階にある狭い会議室。時間は夜の10時だった。会議の内容が何だったのか、いつから会議室で寝ていたのか、全ての記憶が曖昧なまま帰宅した徹生は、妻の千佳から「あなたは3年前に会社の屋上から飛び降りて自殺した」という衝撃の事実を告げられる。
同時期、死んだはずの人々が生き返るという現象が世界中で起きていた。彼らは“復生者”と呼ばれ、社会復帰の道筋はなかなか定まらない。復活するのはイエスのみと信じるキリスト教国では、復生者の存在が大きな波紋を呼び起こしていた。
 36代の徹生は買ったばかりのマンションで千佳と1歳になったばかりの息子・璃久(りく)と暮らし、仕事も多忙ながら充実していた。物心つかない時期に父を亡くした徹生は子育てにも力を注いでいた。そんな自分が自殺なんてするわけがない。俺は妻と子供を置き去りにして自殺するような人間じゃない。絶対に違う!もしかしたら自分は殺されたのではないかという疑念を抱いた徹生は、記憶を取り戻そうと奔走する。死の直前、手帳に書き留められた「いやだ」という文字、転落する直前に見た影。それらが意味するものは?徹生の死の真相は…?
 まるでホラーかファンタジーのような冒頭から、徹生が死の直前の記憶に迫る前半はミステリーのような緊迫感をもって進んでいく。
夫が自殺したのは自分のせいだと3年間苦しんでいた妻の当惑、上司・同僚達の反応。徹生は上司から「人間一人死ねば、その一人分の穴が開く。大きい穴もあれば小さい穴もある。けど、その穴をいつまでも放っておくわけにはいかんだろう。みんなで一生懸命埋める。じゃないと、一々その穴で躓くことになる」「仕事の穴、家族の穴、遺された人の心の穴。お前は、それがちょうど、塞がったところに戻って来てる。無理に抉じ開けようとすると、破れてしまうぞ」と告げられる。自分の死が壊してしまったもの、傷つけてしまった人たちの苦しみを知り、それを元に戻すことが自分が生き返った意味なのではないだろうかと徹生は考え始める。
 後半は徹生が生き返ってから出会った人との交流が描かれ、自分の考え方が少しずつ変わっていく様子が丁寧に描かれる。結論から言うと、徹生は衝動的に飛び降り自殺をしていた。何故このような衝動が起るのか?この謎を解く鍵となっているのが、作者が提唱している“分人”という考え方だ。
分人とは、状況や相手により異なる自分になるという概念である。好感を持っている人に対する自分と、苦手な人に対する自分、職場での自分と休日の自分など、それぞれの自分が分人として存在しており、その様々な分人の集合体によって個人が形成されているというのが作者の唱える分人主義だ。
徹生は、健全でポジティブな分人である徹生がネガティブな徹生を抹殺しようとしたことによって衝動的に自殺していたのだった。毎日頑張って働いて、家庭では良き夫・良き父親で、自分も周囲も幸せだと思っている。しかし、知らず知らずのうちに疲弊は蓄積されていく。人間はどんなに幸せであっても疲れる。分人ごとに疲れる。それなのに疲労が注がれるコップは1個しかない。会社で、これぐらいなら耐えられると思っていても、実はコップには、家での疲労が、まだ半分くらい残っているかもしれない。そうすると、溢れてしまう。
 この分人主義という考え方は、現代社会を生きていく上で知っておくと非常に有益な考え方でもある。顔も年齢も分からないネット上だけの関係と、自分の家族や友人に対する自分が違うのは当然だし、職場での自分、嫌いな人に対する自分…とさまざまな自分が存在する。そのどれもが自分が持ち合わせている複数の分人だと考えると、自分が落ち込んだ時や、意に反する事と折り合いをつけなければならない時に気持ちをコントロールしやすくなる気がする。
もし自分の中に絶望的な分人が存在しても、他の分人がそれをなだめる。そして自分にとって一番“生き心地がいい”分人をベースにして生きていくべきだと作者は提唱しているのだ。この分人主義という考え方が浸透すれば「八方美人」とか「裏表のある奴」なんていう言葉も使われなくなるかもしれない。
 結局、復生は喜ばしい現象のようでありながら、必ずしもそうではなかった。
死ぬ前の徹生は、自分の抱える闇に気づかず明るく眩しい光の中で生きていると思っていた。順風満帆な生活を送っていると信じていた。しかし、復生した徹生は自分の抱える矛盾と向き合い、正さなければならない。そして、たとえ生き返っても“元通り”に戻すことは不可能なのだ。突然夫が自殺したという、あまりにも衝撃的な出来事は、いつまでも妻の心の中に恐怖として残り続けるし、その後3年間、自分を責め、周囲の好奇の目や中傷に耐え続けた“現実”は消せない。生き返って初めて自分がどれだけ大切なものを傷つけたかを知り、激しく後悔する徹生の姿には胸が詰まる。
この物語の徹生は現代人の象徴だ。社会的な責任、結婚や子育て、住宅ローンなど、押し寄せてくる現実に息苦しさを感じている人なら共感できる部分がたくさんあるだろう。そして、自分のことが嫌いな人、人生に希望を見出せずにいる人、生きづらさを感じている人にぜひ読んでもらいたい1冊である。

参考:「私とは何か―「個人」から「分人」へ」講談社現代新書/平野啓一郎
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