本:多くを教えてくれる

ひたむきな人柄に触れて元気と勇気を貰える1冊

「縛られた巨人―南方熊楠の生涯」       神坂次郎
(1927~)



南方熊楠は明治から昭和の初期という時代に18ヵ国語を理解し、博物学・生物学・人類学・宗教学・性愛学・民俗学・エコロジーなどの様々な分野で異能を発揮した世界的大天才である。
権威に依存すること無く、ひたすら自分の興味を追求し続けた熊楠は、学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もいなかった。民間の一研究者として独学を重ねた熊楠は、世界の科学者たちから注目されている科学専門誌『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載された研究者でもある。
その回数なんと51回!! そんな熊楠のことを柳田國男は「日本人の可能性の極限」と評した。

和歌山県の清酒世界一統の創業者である南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)の次男として生まれた熊楠は、幼少時より抜群の記憶力で周りを驚かせた。
幼少期の熊楠が夢中になったのは博物学書の写し書き。『和漢三才図会』という105巻もある膨大な百科事典を読んでは記憶し、自宅で図も含め書き写したと言われている。
しかし学校は嫌いで、異常な癇癪持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になり両親など周囲の人々は頭を抱えていた。熊楠も自分の気性を自覚しており、自分が生物学などの学問に打ち込むことは、それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、柳田國男宛の書簡に書いている。
薄着あるいは裸で過ごすことが多かった熊楠が田辺の山中で採集を行った際、フンドシだけの姿で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために「てんぎゃん」(紀州方言で天狗のこと)と呼ばれたという逸話も残っている。
また、口から胃の内容物を自在に吐瀉できる反芻胃を持つ体質で、小学校時代も喧嘩をするとパッと吐いた。そのため、喧嘩に負けたことがなかったという。

和歌山中学卒業後の1884年、17歳で大学予備門(現東京大学)に入学。同期には夏目漱石、正岡子規などがいた。しかし、「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と大学教育に見切りをつけ1886年、19歳で予備門を中退。父の許しを得て単身アメリカに渡り、隠花植物や粘菌を求めて各地を点々とする。
キューバでは公演中のサーカス団の日本人と意気投合し、象使いの補助をしながらハイチ、ベネスエラ、ジャマイカなど中南米の巡業を3ヶ月ほど共にした(この間も各地で植物採集は続けている)。
この6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡る。この時26才。ロンドンでは大英博物館で東洋関係の資料整理の手伝いをする仕事を得る。同館の正規職員への道を誘われるが、自由を求め嘱託であることを望んだ。また、ロンドンでは孫文と親交を結んでいる。
14年に及ぶ海外遊学の後、 1900年、34歳で帰国。 出迎えた弟はボロを着ている兄の姿に仰天し、何の学位も取らずに書物と標本だけ持ち帰ったことを知り唖然としたという。帰郷後は日本の隠花植物の目録を完成する為に、付近を巡って標本採集に精を出した。
1906年、39歳で闘雞神社の宮司の娘・田村松枝と結婚。1男1女をもうける。

熊楠が結婚した年、1町村1社を原則とする神社合祀令が施行され、これが熊楠の植物研究に影を落とす。歴史のある熊野古道・中辺路の王子社までもが合祀され、廃社となり、神社林の破壊が行なわれた。熊楠は神社林が破壊されることに怒りを爆発させ、神社合祀反対運動に立ち上がる。
地元新聞への投稿、柳田國男の助けなどを借り、反対運動に奔走。自然保護の観念がない時代に、全ての生き物は見えないところでも繋がっており、それが破壊される恐ろしさを日本で初めて「エコロジー」という言葉を使い訴えた。
合祀派の県役人が講習会に出席することを知った時は、直談判すべく会場を訪れるが面会を拒否され、植物標本の入った布袋を会場へ投げ込んで逮捕・拘留された。
しかし、拘置所で珍しい粘菌を見つけた熊楠は、釈放を告げられると「もう少し置いてほしい」と言って出ようとしなかったという。この熊楠らしいエピソードには思わず笑ってしまう。
1920年、10年間の反対運動がついに実を結び、国会で神社合祀無益の決議が採択された。これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めた。

1929年(昭和4年)、熊楠が保護に尽力した神島(かしま)に昭和天皇を迎え、御召艦長門上で粘菌学を進講することになった。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、ここでも熊楠は粘菌標本110点をキャラメル箱11個に収めて進献した。
現場にいた者は全員固まったが、側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」と言ったという。そして、生物学研究者であった天皇は時間を延長して楽しまれた。
33年後に再び南紀を訪れた昭和天皇は、『雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ』という歌を詠んでいる。数多くの歌を残した昭和天皇が実名入りの歌を詠んだのは、後にも先にもこれのみだという。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったそうだ。

自由闊達で嘘がなく、大らかな、それでいて繊細な人であった熊楠は、1941年(昭和16年)12月29日に死去。享年75歳だった。亡くなる前日、「天井に紫の花が一面に咲いている。医者が来ると花が消えるから医者を呼ばないでほしい」と言い残したという。
熊楠は幽体離脱や幻覚などをたびたび体験していたため、死後自分の脳を調べてもらうよう要望していた。そのため熊楠の脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして現在も保存されている。

熊楠は何かに興味を覚えると、それに関連する全てを知らなければ気が済まないという、底なしの好奇心と超人的な行動力の持ち主だった。しかし、その驚異的な記憶力だけではなく、膨大な量の書籍を写し、自分の足で世界各地の山野に分け入って標本を集めた努力の人でもある。
熊楠は、「世界に不要のものなし」という言葉を残している。
粘菌や昆虫など微小なものを観察し続け、民俗学、各国の神話に通じ、繋がりを紡いでいった熊楠の目には全てのものが必然として映っていたのだろう。

「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」
生涯を在野の学者で通した熊楠は、大英博物館をはじめ、一流の研究機関から破格の条件で招聘があっても全て断った。生涯定職に就かず、無位無冠。収入もろくになかった。父親の死後は資金に苦労し、実弟との軋轢や息子の病、不遇な時代もあったという。
しかし、何にも頼らずこれほどの偉業を成し遂げた日本人は他に存在しない。
熊楠の人生を知ると、いかに自分が行動せずに分かったような気になっているか、狭い世界でしかものを見ていないかを思い知らされる。周囲と同じであることに安心し、子供を型にはめてしまう現代の日本では、熊楠のような唯一無二の天才は育たないだろう。
「縛られた巨人」は、熊楠の日記、書簡、記事、記録などの資料をふんだんに取り入れて書かれているため、熊楠の人間的魅力が充分に伝わってくる。思わず笑ってしまったり、驚かされるエピソードも多く、著者の熊楠に対する愛情が伝わって温かい気持ちになれる。南方熊楠という偉大な人物の生き様に触れる最良の1冊と言っていいだろう。
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