本:多くを教えてくれる

ほろ苦くユーモラスな人間模様

「苦の世界」       宇野浩二
(1891~1961)



宇野浩二は明治24年7月26日、福岡県南湊町で生まれた。父は六三郎、母はキョウ、7歳年上の兄と2人兄弟であった。六三郎は福岡県立師範学校で国語、漢文、習字を教え、中学の教師も兼任していたが、明治27年、脳溢血で急死する。その後一家は親類を転々とし、浩二が8歳の時に母の兄・福岡正朔を頼って大阪市南区宗右衛門町へ移り住んだ。
19歳で早稲田大学に入学するが中退。その後、童話などを書き始め、大正8年に発表した「蔵の中」、「苦の世界」により新進作家として認められる。戦後は文芸評論の分野や芥川賞選考委員として後進の育成にも努めた。広津和郎、谷崎精二、芥川龍之介らと交友を結び、弟子に水上勉がいる。晩年は、広津と共に松川事件被告の救援活動に参加している。
その独特の文体は饒舌体と呼ばれ、小説のためなら己を犠牲にする事も厭わない姿勢から、ついた称号が“文学の鬼”。終戦後、焼け野原に佇む織田作之助に「お前、なにをボヤッとしとる。小説が書けるんやぞ。なんでも好きなことを書いてええんやぞ」と力づけたという逸話も残っている。また、布団の中でうつ伏せになって小説を書くところから文壇では“布団の中の宇野”とも呼ばれた。

昭和初年に精神を病み、広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らの配慮で斎藤茂吉の治療を受けた。(大量の睡眠薬を摂取していた宇野は街路に家族を呼び集め、泣きながら「これが、俺の家だぁー」と1時間近く叫び続けた末に入院したという)宇野の入院中に芥川が自殺。回復後は、かつての饒舌な文体から一変、枯れた作風となり、早世した画家・小出楢重を描いた「枯木のある風景」で復活する。
昭和36年9月21日、肺結核のため自宅で他界。享年70歳。

「苦の世界」は大正7年から大正10年にかけて発表されたものである。 前半は、絵描きの主人公“私”が惚れて一緒になった芸者のヒステリーに悩まされる話である。 私は彼女を見初めて芸者屋から連れ出し、駈け落ちをした。追われる身になった私は偽名を使い、母親と妻と3人、下宿屋でひっそりと生活する。
しかし、妻は一旦ヒステリーになると手がつけられない状況になるので、私はいつもびくびくしていた。妻がヒステリーを起こすと、他人がいるのもかまわず大声で喚き、物を投げたり暴力を振るった。母親とは当然うまくいかず、母親は親戚の家へと逃げ出した。
私と妻は下宿を変えたが、妻のヒステリーが治るはずもなかった。そのうち妻は再び芸者になりたいと言い出し、横浜で芸者になった。

後半はヒステリーの妻と別れた主人公が知り合いの住まいを転々とする語である。
山本という男の経営する小さな出版社で手伝いをしていたが、その出版社が潰れ、山本は破産。収入のなくなった私は下宿の支払いができなくなり夜逃げする。
最初は知り合いの法学生、鶴丸の下宿に厄介になるが、鶴丸は勉強そっちのけで女にうつつを抜かしていたため、父親に連れ戻されてしまう。次に、売れない文学者の木戸の下宿に厄介になる。しかし、ずっと木戸の下宿に居る訳にもいかないので、偶然知り合った半田という男の家にも泊めてもらう。仕事にも就かず、決まった住居もない私は、自虐的に自分の生活を語っていく。

この物語に登場するのは善良だが不運な人物ばかりである。
しかし、どの人物もどこか滑稽で悲壮さは感じられない。無一文なのに、遊園地の花屋敷で揃ってメリー・ゴーラウンドに興じたり、転げ落ちたり。なけなしのお金でかわうそに餌を買って与えたり、与えすぎて怒られたり。臨時収入があれば滞納した下宿代を払い、残りのお金で大きな犬の置物を買って、また無一文に戻ってしまう。みんなどこか飄々としていてユーモアさえ漂っている。
これは宇野浩二の持った明るさが根底にあるからだろう。大阪育ちの宇野には、自分のダメさを笑い話に変える関西人特有の話術が身についている。そして、その笑い話の中に人間の弱さや愚かさ、周囲を傷つけずには生きられない人の業を透かして見せるのだ。

実生活でも宇野浩二は、伊沢きみ子という場末の娼婦街で知り合った女性と同棲していた時期がある。
きみ子の叔父は当時警視総監をしており、後に台湾総督になるような大物だった。また、きみ子の父親は医者で、一家も一族も上流の暮らしをしているのに、きみ子はものすごいヒステリーで厳格な父親と衝突する日々を送っていた。その挙げ句に家出し、斡旋屋に騙され芸者に売り飛ばされたのだった。
そんな生まれもあってか、きみ子には気品があった。背のすらっとした瓜実顔の器量よしで、とても場末の芸者には見えなかった。
宇野浩二はきみ子に惚れ込んでいたのだが、突如21才のきみ子が宇野の元に押しかけてきて、同棲が始まる。その結果、6畳の狭い部屋に宇野と母親、きみ子の3人が顔を突き合わせて暮らす事になった。やがて、貧乏暮らしに腹を立てたきみ子は暴れたり叫んだりするようになった。しかし、母がきみ子との同居に耐えられなくなって親戚の家に移った後も、宇野はきみ子との同居を続けている。
生活が経済的に行き詰まると、きみ子は「もう一度、芸者に出ようかしら」と言うようになった。
宇野は、「私が作家になるまで、どうか我慢してくれ。そしたら、迎えに行くから」と指切りして、彼女を送り出している。
暫くするときみ子は借金を踏み倒して横須賀から逃げ出し、横浜の置屋に住み替えている。きみ子がこうした掟破りの行動に出たのも宇野を援助するためだった。しかし、横浜に移ってからは、きみ子との連絡も間遠になり、やがて消息も知れなくなった。それから2年後、宇野は友人からきみ子が猫いらずを飲んで自殺したという知らせを聞く。
「苦の世界」は、こうした宇野の実体験に基づいて書かれた作品なのである。

宇野は万事について無抵抗主義者だと主張しているが、実際は注意深く物事を見つめ、人間の持つおかしさや哀しさを表現する事に秀でた作家である。
「苦の世界」も、主人公が身の振り方を考える日々がだらだらと続き、唐突に終わる。まるで人の一生がそうであるかのように。
本書のあとがきで宇野は次のように書いている。
『おわりに、この拙文をよまれたら、大正年代(ことに大正の初めから中ごろまで)が、いかに、のんきなものであり、悠長なものであったかが、わかり、大正時代は、こういうくだらない小説を出す雑誌が幾つもあったほど、いわゆる文壇が、めでたく、のんびりしていたかが、わかるであろう、と、いう事を、つけくわえておく。』
宇野の言う古き善き時代を羨ましく思う反面、どんな時代でも人間は生きている限り「苦」と共にあるんだなぁと、しみじみ感じさせられる。一度読むと長く心に残る不思議な魅力のある作品である。
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