本:多くを教えてくれる

人が人として生きる最低限の条件とは

「木橋」

永山則夫



 1968年、連続ピストル射殺事件が起こった。東京、京都、北海道、名古屋でガードマンやタクシー運転手ら4人が射殺されるという事件の犯人は当時19歳の永山則夫。僅か1ヵ月で4人を射殺するという衝撃的な事件の犯人が19歳の少年だったというこの事件は、日本中に衝撃を与えた。逮捕後、永山は獄中で字を学び、本を貪り読みながらノートを綴った。大学ノート10冊分にまとめられた散文や詩は1971年に『無知の涙』として出版され3ヵ月間で7万部を売るベストセラーになった。これ以後、永山は自分の生い立ちを題材とする自伝的な小説を書いている。第一作品集となる『木橋(きばし) 』(1984年)は新日本文学新人賞を受賞し、永山は作家として認知されることになる。しかし、日本文藝協会は永山が連続殺人を犯した囚人だという理由で彼の入会を認めなかった。これに抗議して中上健次、柄谷行人、筒井康隆などが同協会を脱会する騒動もあった。
 『木橋』は作者の少年時代をモデルにした、“N少年”が主人公となっている。
劣悪な環境で生きているN少年は、どん底の生活から抜け出す術を知らない。何の希望もなく、自分の中に鬱憤をため込んでいる。
誰からも愛情を受けることなく、極貧の生活の中でもがく少年の姿は永山本人を投影したものだ。この物語を読むと、幼い頃からここまで苛酷な境遇で育ってきた永山に対して憐れみの気持ちを抱かずにはいられない。しかし、同時にいくつかの疑問や反感も湧いてくる。
よく言われることだが、幼少期に虐待を受けた人がみんな殺人犯になるかと言えば、決してそうではない。悲惨な幼少期には同情するが、それが殺人の言い訳にはならない。これが窃盗とか、傷害ならまだ分からなくもないが、彼は金品を奪う目的でタクシー運転手を2人も射殺しているのだ。これが私にはどうしても受け入れられなかった。
 確かに永山則夫は絶望的な環境で育っている。
彼はリンゴ剪定師の子として北海道の網走に生まれた。8人兄姉の7番目の子供だったが、長男が高校生の時に女友達を妊娠させて生まれた子も引き取っていた。唯一、則夫に優しかった長女は精神に異常を来して精神病院に入院していた。
父親はバクチの金がなくなると、一家が明日食べる米まで持ち出して金に換えるような男だった。母親は2人の女児と長男が生ませた孫だけを連れて実家のある青森の小さな町に逃げた。置き去りにされた兄姉弟は、自力で生きていくしかなかった。姉は新聞配達、兄たちは鉄屑拾い、則夫は港で魚くずを拾って帰るという暮らしを続けているうちに、見かねた近所の人が福祉事務所に通報し、子ども達は青森の母の元に送られる。母はリンゴの訪問販売をしており、朝リンゴを背負って家を出て、暗くなるまで帰らなかった。母親不在の家で兄たちは則夫に暴力をふるい、徹底的にいじめたという。
小学校から中学校にかけて、則夫は家出を繰り返し、万引癖もついた。家では兄たちから暴力を受け、学校では家出常習者、万引常習者としてイジメの的になった。
中学を卒業した則夫は、集団就職で東京に出る。東京では働きぶりが評価されて支店を任されたこともあったが、どうしても一つの職場に定着できなかった。19才で連続射殺犯になるまでの間、則夫は住む場所と仕事を転々と変え、何度も自殺未遂を繰り返している。彼がひとつの場所に落ち着いたのは、留置場に入ってからだった。
 永山の逮捕から5年後、一年近くにわたって精神鑑定が実施されていた。鑑定した石川医師(当時38歳)は、イギリスで最新の精神医学を学んだ新進気鋭の精神科医。石川医師が鑑定にかけた期間は278日間。その際に録音した100時間以上のテープを石川医師は手放さずにいた。そのテープと鑑定記録などをもとに、ジャーナリストの堀川惠子が『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店/2013年)という本を執筆している。
『永山則夫 封印された鑑定記録』によると、全ての聞き取りを終えた石川医師は「被告人は犯行前すでに出生以来の劣悪な環境や外傷的情動体験等によって、人格の全体的発達や性格形成を歪められ偏らされていた。(中略)極限状態にあった被告人の絶望感と攻撃衝動を、肉親や社会に対する仕返しの側へ転化させる引き金となった」と分析した。
永山の連続殺人事件は、当時の報道が一斉に言い立てた貧困・無知が引き起こした犯罪ではなく、肉親への仕返し(永山の言葉に置き換えると“あてつけ”)が真の理由だと判断したのである。
 自尊心を傷つけられた永山は、「これは自分の鑑定じゃないみたい」と言い、裁判でも二審の無期懲役判決で裁判官は石川鑑定を参考にしたと思われるが、最高裁が差し戻した後は、まるで鑑定が存在しないかのように一切触れられなかった。そして、最高裁では同じ環境に育った他の兄妹が同様の犯罪を起こしたわけではないとして死刑が確定された。石川医師はこれ以後、犯罪精神医学の道をすっぱり退き臨床医になったという。
則夫の言葉が残っている「俺の他にだって貧しい人がいる。それでもちゃんとやっている人がいるって言われるけどね“違う”って言いたいんだ。違うから、ここにこういう存在があるんだ。 馬鹿扱いにされてね。兄姉かな。兄貴のリンチ…あれさえ無ければ…。学校、ちゃんと行くようにしていればね。」この言葉には胸が詰まる。
ちなみに、則夫の兄姉たちも詐欺で服役、ギャンブル依存症、統合失調症、消息不明などで、幸せな人生は送っていなかったようだ。
 彼の起こした事件は、虐待問題、貧困、教育格差、少年法、死刑制度など、さまざまな問題を現在も投げかけ続けている。
1997年8月1日、獄中で28年間を過ごした永山の死刑が執行された。享年48歳。永山は死刑執行のその日まで石川鑑定の報告書を手放さなかったという。
永山の死後、弁護人たちにより『永山子ども基金』が創設された。これは著作の印税を国内とペルーの貧しい子どもたちに寄付してほしいという永山の遺言によるものだ。
現在でも彼の印税はペルーの働く子どもたちが自主運営する労働組合ナソップで教育訓練などの活動に生かされている。この基金のおかげで犯罪に手を染めずに済んだ子どもがいるかもしれない。彼の生と死は決して無意味ではなかったと思えるのがせめてもの救いだ。
 今も幼い子どもの虐待や貧困問題、動機の分からない若者の犯罪が後をたたない。物質的には豊かになった現代にも、表面に現れないいびつさが社会の根底にあって、そこでもがいている人が存在している。犠牲になっている子ども達がいる。政治や行政を非難して自分は無関係だと思うのではなく、もし何か違和感を感じる状況に出会った時は声をかけたり手を差し伸べる勇気が一人ひとりに必要なのかもしれない。それはとても難しいことだけれど。
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