本:多くを教えてくれる

胸を打たれるほどの感性の鋭さ、言葉の美しさ

「艸木虫魚」

   薄田泣菫



  タイトルの読み方は「そう・もく・ちゅう・ぎょ」。著者は「すすきだ・きゅうきん」。
薄田泣菫は、本名・薄田淳介(じゅんすけ)。岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町)で生まれた。岡山県尋常中学校(現在の県立岡山朝日高校)を体操教師のいじめなどから、17歳で中退した泣菫は、上京して独学で文学的教養を身につけたという。
その後関西に住み、明治30年(1897)「花密蔵難見 (はなみつにしてかくれてみえがたし) 」を総題とする詩 13編が島村抱月らに認められる。その後、明治32年(1899)、22歳にして発表した「暮笛集」や「ゆく春」 (1901) 、「公孫樹下にたちて」(1902) で島崎藤村らが去った詩壇の第一人者となった。明治39年(1906)に出版された「白羊宮」は、古典浪漫主義の詩の絶頂に達したと評価された。
 古語、雅語を駆使した浪漫主義的・象徴的詩風で、蒲原有明とともに明治後期の文語象徴詩の大成者とされている。
大正元年、大阪毎日新聞社に入社。大正4年(1915)から大阪毎日新聞夕刊に連載した随筆「茶話」が好評を博し、以後随筆家として活躍する。
博識のうえ話術も巧みだった泣菫の作品は、多くの読者を魅了した。この当時、芥川龍之介、菊池寛などの新進作家を積極的に発掘し、文学界の発展にも貢献した。
芥川龍之介は「人及び芸術家としての薄田泣菫氏」という文章の中で『薄田泣菫氏の「茶話」は如何に薄田氏の諧謔に富み、皮肉に長じてゐるかを語つてゐる』と書いている。
大正6年(1917)、パーキンソン病を発症。体を動かすことが不自由になり、大正12年(1923)新聞社を退社したが、夫人が口述筆記をして随筆を書き続けた。その後、次第に症状が重くなり昭和20年(1945)、少年時代を過ごした連島の実家に帰り68歳の生涯を閉じた。
なお、生家は一般公開されており、泣菫の自筆の書や交友のあった文人たちからの書簡などが展示されている。
  「茶話」は“お茶を飲みながら世間話をするような気持ちで”過去の偉人や当時の有名人の逸話逸聞、政治や社会風俗などについてのこぼれ話を連載したもので、泣菫は現在で言うコラムニストのはしりのような存在だったのだろう。この「茶話」は、4年間に660篇余りも書いたというからすごい。「茶話」を読みたいがために、当時多くの人たちが新聞を買い求めたそうだ。
 「艸木虫魚」には、「茶話」からも何編か収録されていてバラエティに富んだ内容になっている。
テーマは自然の風物に関するものや、故事や時事、風習についての逸話、児童むけのおとぎばなしなど書画骨董や歴史上の人物についての故事など多岐に亘っている。泣菫の植物や動物に対する視線はとても細やかで、色や形だけでなく匂いや温度まで伝わってくるような文章は、何度も何度も読み返してしまう。今の時代に、これほどまでの文章を書ける人はなかなか見当たらないのではないだろうか。
 実在の人物についてのエピソードがゴシップ的な内容になっていないのも、泣菫のユーモアたっぷりの表現力によるところが大きいのだろう。
 難病とされるパーキンソン病を突如発症し18年間病と戦いながら随筆を書いていた泣菫は、西宮市の夙川近くにある自邸を “雑草園”と名づけていた。彼は著書「独楽園」の中で、こう書いている。『私の家には、そんな勿体づけられた異木佳樹といつては、ほんの一株も見られないのみか、その悉くがそこらにざらにある雑木雑草なのだ。だが、これらの地味な樹木も、夏が来ると、それぞれ黄色がかつた緑の柔かい若葉を伸ばし、枝を伸ばして、人間ならば貧しい農民か樵夫かといつたやうな人達にのみ見られる、心やすさに充ちた微笑をもつて私を見詰めてゐる。』『一体庭樹といふものの多くが、人間の好みに適応するやうに囚へられ、撓められ、造り替へられてゐるのに比べて、雑木はその持味の素朴さ、粗々しさ、とげとげしさの感じが失はれてゐないだけに、それにとり囲まれてゐると、どうかすると人をして山林の中に棲遅(せいち)してゐるやうな幻想を抱かしめるものだ。それにまた雑木のもつ健康さが―雑木は多くの場合佳木よりも健康だ。ちやうど農民や樵夫たちが、有産階級のなまけものよりもずつと達者であるやうに。』これらの文章からも泣菫が身近な自然に愛情を注いでいたことがよく分かる。
 「艸木虫魚」では柚子、とうがらし、柿、栗など身近な食べ物についても多く描かれている。
『どれもこれも小鳥のように生意気に嘴(くちばし)を尖らし、どれもこれも小肥りに肥って、はち切れそうに背を丸くしている。焦茶色の肌は、太陽の熱をむさぼるように吸って、こんがりと焼け上がった気味だ。』(「栗」)
 『私はよく雑木林のなかで、しめじ茸を見つけたことがあった。この菌は狐のたいまつなどが、湿っぽい土地に一人ぼっちで立っているのと違って、少し乾いたところに、大勢の仲間と一緒に出ている。私は黄ばみがかった落葉樹の下で、この菌の胡粉を塗ったような白い揃いの着付で、肩もすれすれに円舞を踊っているのを見たことがあった。』(「台所のしめじ茸」)
こうした詩人らしい巧みな表現の数々は、一気に読んでしまうのが惜しくなるような美しい言葉の結晶だ。
 泣菫は、病によって手足の自由が奪われ、好きだった散歩もできず、やがて瞼や顎の神経が麻痺しても、口述筆記によって書くことを続けた。決して悲壮感を感じさせない泣菫の文章からは彼が文学に賭けた想いが伝わってくるようだ。日本語の美しさ、極上の文章とはどのようなものかを教えてくれる本書は、常に身近に置いておきたい珠玉の随筆集である。

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