本:多くを教えてくれる

狭い場所でチェスの宇宙を旅した主人公の物語

「猫を抱いて象と泳ぐ」

小川洋子



 生まれた時、上下の唇が癒着していたため産声を上げることができず、切り離し手術で唇に脛の皮膚を移植した少年の物語。
成長するに従って唇に脛毛が生え、それをコンプレックスに感じているため極端に口数が少なく友達もいない。そんな少年は大きくなりすぎて屋上から降ろすことができなくなり、屋上で一生を終えたゾウのインディラと隣家との隙間に挟まったままミイラになって今も壁に食い込んでいると噂されている女の子・ミイラを心の友達としている。そんな風変わりで孤独な少年の人生を変えたのは、廃車になった回送バスで暮らすマスターとの出会いだった。
 回送バスでポーン(チェスの駒)という名前の猫と暮らすマスターからチェスの魅力を教わった少年は、その類い稀な才能を開花させていく。ある時、少年はマスターの勧めで町のチェスクラブの入会審査を受けるが、ゴージャスでスノッブな雰囲気に呑まれて力を発揮できず、後半は机の下にもぐりこんで勝負を始めてしまう。少年が“リトル・アリョーヒン”と呼ばれるのは、この勝負からだった。
 回送バスの中はマスター手作りの甘いお菓子の香りが立ちこめ、光があふれ、庭は静けさに包まれている。よく使い込まれたテーブルチェス盤と駒を使いマスターからチェスの手ほどきを受けている時間は少年にとってかけがえのないものだった。
しかし、そんな幸せな日々はある日突然終わりを告げる。
マスターが心臓マヒで突然死してしまったのだ。体重が250キロを超えるマスターの遺体を運び出すためにバスは無残に解体され、野次馬たちは大騒ぎする。少年は解体されたバスの中から奇蹟的に無事だったテーブルチェス盤と駒を見つけて何とか持ち帰るが、大きくなることに恐怖を抱き11歳のまま成長する事を拒否してしまう。
マスターの死後、少年はアンダーグラウンドなチェスを楽しむ“海底チェス倶楽部”で自動人形リトル・アリョーヒンの中に入り、操り手としてチェスを指すようになる。
ここでリトル・アリョーヒンは彼の対局の記録係としてやって来た少女と出会う。彼女はマジシャンだった父の形見の鳩を肩にのせた物静かな少女で、リトル・アリョーヒンが思い描いていたミイラにそっくりだった。彼女に“ミイラ”という呼び名をつけたリトル・アリョーヒンはミイラと心を通わせていく。
ある日、自動人形が壊されるという事件が起こる。修理に出している間、リトル・アリョーヒンとミイラに与えられた仕事は、人間が駒の代わりをする“人間チェス”の指し手と記録係だった。ある日、駒の役をやるはずだった女性が病気で来られなくなったため、ミイラが代役のポーン役を務めることになる。リトル・アリョーヒンは相手の下品な男を打ちのめすためではなく、相手の吐き出す毒を浄化するためにポーン役のミイラを尊い犠牲の駒として使い、その犠牲が根となり、思いも寄らない鮮やかな花を咲かせるような勝ち方をする。しかし、犠牲になった駒の運命をリトル・アリョーヒンは知らなかった。ゲームが終わったあと、彼はミイラに会おうとするが、会うことはできなかった。
人間チェスの真実を知りショックを受けたリトル・アリョーヒンは海底倶楽部を出て、実家に戻る。その後、エチュードと呼ばれるロープウェーでしか行くことの出来ない山奥の老人施設へ向かう。そこは現役を引退したチェスプレーヤーが集まる老人専用マンションで、そこに住む人たちとチェスを指すのがリトル・アリョーヒンの仕事だった。そして、そこでミイラと手紙を通じてチェスの勝負が始まる。対局の終わり、ミイラは投了の手紙を直接渡すためエチュードを訪れる。しかし、その時リトル・アリョーヒンは既にこの世にはいなかった…。
 まるで翻訳された文章を読んでいるような、独特な雰囲気に包まれた物語。不思議なタイトルの意味も、読み終わるとよく分かる。
この物語の登場人物には名前がなく、時代や場所も特定されていない。物語を読んでいる間、ずっと繊細なチェスのメロディーを感じさせるような文章はとても美しく、少し哀しい。
リトル・アリョーヒンにとって、マスターとの思い出はかけがえのないものだった。チェス盤の下に潜り込んでチェスを指したため反則を取られ落ちこんでいるリトル・アリョーヒンに「チェス盤の上では強いものより善なるものの方が価値が高い」と諭したマスター。「チェスとは二人の心をぶつけ合い融合させて作り上げる一つの広大な交響曲である」という教えを守ることができたのは、「慌てるな、坊や」というマスターの言葉がリトル・アリョーヒンの中でずっと響いていたからだ。
リトル・アリョーヒンの人生が幸せだったか不幸だったかは、読む人の受け取り方で変わってくるだろう。彼の外見は確かに奇異で人前に出ることを極端に嫌っていたが、彼の人柄を理解してくれる祖父母や弟、マスター、ミイラ、老婆令嬢、総婦長という温かで優しい人たちに恵まれていた。その才能を世間に知られることのない一生だったが、チェスという唯一無二の道を見つけ、美しい譜を描くことに全てを捧げた。リトル・アリョーヒンは、子供の頃から自分にとって本当に大切なものを知っていて、そのためだけに生きることが出来たのだ。そんなの人生を私は羨ましく思うし、短くても幸せな生涯だったと感じる。
 物語の中に何度も登場する“ポーン”は、将棋の“歩”と同じような駒だ。作者は最初のページでポーンのことを「決して後退しない、小さな勇者」、リトル・アリョーヒンが好きだったビショップは「斜め移動の孤独な賢者」と形容している。このページを読むだけで本作の美しさ、優しさが凝縮されている。美しい文章で物語を紡ぎながら、その美しさの中に唐突にグロテスクな出来事を織り交ぜる小川ワールド。彼女が生み出した天才棋士の物語は、静かに深く余韻を響かせる一冊だ。
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