本:多くを教えてくれる

深沢七郎の多彩な魅力を知ることが出来る作品集

言わなければよかったのに日記」  深沢七郎
(1914~1987)





本書は「楢山節考」で文壇デビューした深沢七郎が、その2年後に書いたエッセイ集である。
内容は3部構成になっており、1部は正宗白鳥、石坂洋次郎、武田泰淳、伊藤整、村松梢風、井伏鱒二らとの交流やお見合いのエピソードなど、2部は母親や幼少時に家で女中をしていた“おきん”という女性との思い出、3部では「日本風ポルカ」「シナ風ポルカ」「江戸風ポルカ」というふうに、「ポルカ」がつくタイトルで15の小話が書かれている。

本書はどこまでが冗談なのか、それとも終始真面目なのか分からないが、自分の無知さ、無教養さによる失敗談などの面白いエピソードが数多く語られており、その文章からは著者のあっけらかんとした人柄が垣間見える。姥捨てをテーマにした「楢山節考」とのギャップが大きすぎて、同じ作家が書いたとは思えないほどだ。と、同時に深沢七郎の懐の広さ、非凡さを窺い知ることができる1冊でもある。
そんな、まるで子供のような深沢を文壇の大御所たちも愛していたようだ。

大正3年、山梨県東八代郡石和町(現笛吹市)で印刷業を営む家の4男として生まれた深沢七郎は、石和小学校から日川中へ進学するが、成績が振るわなかったことから小学校時代の担任・岩間先生の家へ預けられる。ここでの生活が深沢の転機となった。岩間先生の家が農家だったため、農業に親しむようになり、ギターや囲碁、映画などといった娯楽にも興味を持ち始める。中学を卒業すると、東京の薬店、パン屋で働くが、いずれも1週間ほどで辞めている。転々と生活する中、本格的にギターを習い始める。
昭和14年、第1回ギターリサイタルを開催。その後も旅回りバンドを結成し、ギターで生計を立てる。
昭和31年、42歳の時に「楢山節考」を執筆、中央公論の新人賞に応募し、これが第1回中央公論新人賞になった。選者は伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫という現在では考えられない豪華メンバーだった。
3人とも、この作品の出現にショックを受けたという。自由や社会ばかりをテーマにしていた戦後文学の中にあって「楢山節考」はセンセーションを巻き起こし、ベストセラーとなった。
人間をいたずらに美化することなく、彼らが隠蔽してきた偽善を暴き、人間性というものの本質に迫った「楢山節考」は、三島由紀夫に「総身に水を浴びたような」という強烈な印象を与え、また辛口批評家の正宗白鳥に「人生永遠の書」と言わしめたことでも有名である。

生きることの陰惨さや残酷さ、滑稽さを丸ごと描くスケールの大きさ、人が生まれることの意味を単なる生理現象として虚無化する一方で、深沢は庶民の哀歓を味わい深い筆致で描いた。
しかし、作家としての地位を確立した深沢に大きな転機が訪れる。
中央公論に発表した小説「風流夢譚」の内容に、民衆が皇居を襲撃する部分や、皇太子・皇太子妃の首がマサカリで切り落とされ、スッテンコロコロと転がる場面などが描かれており、これが不敬であるとして激高した17歳の右翼少年が、中央公論社の嶋中鵬二社長の家に押しかけ、夫人に重傷を負わせ家政婦を刺殺するという事件を起こした。いわゆる「嶋中事件」である。この事件の影響で深沢は1965年まで放浪生活を余儀なくされた。深沢自身は嶋中事件で犠牲者が出たことを悔やみ、様々な方面からの復刊依頼に対しても「未来永劫封印するつもりだ」として応じなかった。
余談だが、この事件が起こる前、事前に「風流夢譚」を読んだ三島由紀夫は右翼感情を心配して、三島の「憂国」と抱き合わせで掲載するよう手配して外国に旅立ったという。しかし、「風流夢譚」は単独で発表された。この工作が誤解されて「風流夢譚」の推薦者は三島だと言われ、三島にも警察の護衛がついた。それから7年後、三島自身が割腹自殺を遂げ、その首が転がることになると誰が想像できただろう。
深沢が作家として認められたのは、三島由紀夫の熱烈な推薦があったからだ。三島は生涯に渡って深沢七郎を意識していた、せざるを得なかった風だった。しかし、当の深沢は「三島センセイのは少年文学だからね」と一蹴している。
深沢七郎は、三島の死後インタビューで「いくら頭が良くても、あんな無理して生きていればそりゃあ若死にしますよね」と話している。彼は三島の心の奥底を見透かしていたのかもしれない。

1965年、埼玉県南埼玉郡菖蒲町に落ち着いた深沢は、“ヒグマ”こと森兼宏と“ヤギ”こと深谷満男という2人の若者をと共に「ラブミー農場」を開き、そこで自給自足の生活を始める。この牧場の名前は好きだったプレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」をもじってつけられた。
数年後に心筋症による重度の心臓発作に見舞われ、以後亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることとなる。1971年には、東京都墨田区東向島で今川焼屋「夢屋」を開く。包装紙は横尾忠則のデザインだった。また、51年からは草加市松江町でダンゴ屋を開き、いずれもマスコミで取り上げられ盛況だったそうだ。

1987年8月18日、深沢七郎はラブミー農場の葡萄棚の下で、理髪店用の椅子に横たわったまま静かに亡くなった。当時、いかにも深沢七郎らしい最期だと報道された。享年73歳。生涯妻帯しなかった。
告別式では、遺言に従ってプレスリーやローリングストーンズなどをBGMに自ら般若心経を読経したテープや、深沢が作詞した「楢山節」の弾き語りのテープが流されたという。

生前、深沢七郎はこう公言していた。
「オレは自分のことだけしか考えず、自分のためにしか生きていない」
深沢七郎は、郷土愛や愛国心、家族愛、恋愛など“愛”と名のつくものはすべて借り物のようなものだと考えていた。人間の原型は「自分のことしか考えず、自分のためにしか生きていない」ところにあり、その他はあとからくっつけた添加物だというのだ。
「ただ、ぼーっと生まれてきたのだから、ぼーっと生きればいいのです」「人間は誰でも屁と同じように生まれたのだと思う。生まれたことなどタイしたことではないと思っている」…死生観をこれほど事もなげに言い放った作家が他にいるだろうか。
一見アナーキーに聞こえるこれらの言葉は、孤独の大切さを知っている深沢だからこそ言えたのかもしれない。インテリの作家とは生き様も世界観も異なった深沢七郎。「楽しく暇つぶしで生きよう」と宣言し、それを全うした稀有な人物である。


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