本:多くを教えてくれる
独自の観念を構築するポール・オースターの象徴的作品

「ムーン・パレス」 ポール・オースター
(1947〜)






稀代のストーリーテラー、ポール・オースターの小説には、偶然が重なりやがて必然となっていく、という物語が多い。
「ムーン・パレス」もオースター作品で繰り返される“一つのことはまた別の一つのことへとつながっている”という偶然の必然性を象徴する作品と言っていいだろう。物語は一人称で、主人公のマーコが若い頃を振り返って告白する形で書かれている。主人公そのものの話、登場人物が語る話、登場人物が創り出すフィクションとしての話などが多重構造で重なり、まるで本当に彼の話を聞いているような不思議なリアルさに満ちている。

驚くことに、この波瀾万丈のストーリーの大筋は本書の最初の1ページにほとんど書いてある。
マーコ・スタンリー・フォッグは母親と2人で暮らしていたが、その母も彼が11歳の時にバスに轢かれて亡くなる。父親は始めからいなかった。その後、彼は伯父さんに育てられる。高校を卒業したマーコはニューヨークのコロンビア大学に入学するが、2年生の時、その伯父さんも亡くなってしまう。たった1人の身寄りを亡くし絶望したマーコは、人生を放棄し始める。やがて生活費も尽き、アパートを追い出され、浮浪生活を送るようになるが、旧友とガールフレンドのキティにセントラルパークの芝生の上で大の字になっているところを発見される。
その後、マーコはキティのつてで、トマス・エフィングという老人の世話係として雇われる。エフィングは車椅子で全盲の老人だった。仕事はもっぱら代読や代筆、散歩のときに目に見える光景を片っ端から言葉で描写するという風変わりなものだった。エフィングは、やがてマーコを信用して、ある話を口述させる。画家だった若き日のエフィングは荒野に旅に出るが、パートナーを失い、ガイドに裏切られ、辿り着いた洞窟で死体を見つける。そこは悪党一味の隠れ家で、彼は悪党一味を倒して大金を手に入れたというのだ。エフィングは、自分が荒野で死んだことになっているのをいいことに、別人になりすまして生きて来たのだ。しかし死期が迫った時、息子が生存していることを知る。エフィングの死後、マーコはその人物に連絡を取り、会うことになるのだが、その人物はマーコにとっても重要な人物だった…。

本作は青春時代のほろ苦い出来事をロードムービーのように綴った小説だ。「ライ麦畑でつかまえて」や村上春樹の作品と同じような、孤独ながらも清々しい味わいがある。生きている限り決して失うことのない何かを見つけ出すというラストは、孤独、喪失といったネガティブな要素から得るものもあるということをクールに教えてくれる。夢見がちな時代を卒業し、現実を生きる大人になるための通過儀礼的な1冊とも言えるだろう。

題名の「ムーン・パレス」はニューヨークに実在した中華料理店の名前で、小説の中でもマーコのアパートの窓から「Moon Palace」という電飾看板が見えるという設定になっている。その他にも人類の月面着陸、ブルックリン美術館の絵画「月光」、エフィングの息子が書いた物語に出てくる月から来た人間の話など、月がシンボリックに登場する。マーコが再出発を友人たちとムーン・パレスで祝ったとき、最後に割ったフォーチュン・クッキーの中から現れた紙には「太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である」という言葉が書かれていた。この物語で月はすべてを静かに包み込む大きな力のように、くり返しモチーフとして使われている。

アメリカの現代文学作家には映画好きな人物が多いが、ポール・オースターもまた映画を深く愛する作家だ。1990年、ニューヨーク・タイムズに掲載された「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を読んだ映画監督ウェイン・ワンがオースターに連絡を取り、作品の映画化の話が進んだ際、オースターはワンとの親交を深め、1995年の映画「スモーク」の脚本を書き下ろし、ハーヴェイ・カイテルやフォレスト・ウィテカーなどのキャストの選定も行った。「スモーク」を撮り終えた頃、余ったフィルムで何か出来ないかと考えて撮られたのが、「ブルー・イン・ザ・フェイス」である。即興で作られたため、6日間で撮り終えられたこの作品には数多くの俳優が集まり、その中にはルー・リード、マイケル・J・フォックス、マドンナなどもいた。オースターはこの作品でも脚本及び副監督を務めている。1998年、初の監督作品「ルル・オン・ザ・ブリッジ」を発表。元々はヴィム・ヴェンダースに監督を依頼していたがヴェンダースの都合により自身が監督を務めることとなった。オースターの主張する“偶然性の力”は、映画作品の中でも魅力的なストーリーとして展開されている。

オースターはインタービューの中でこう話している。
「私が語りたいのは予期しえぬことの存在、圧倒的な困惑に満ちた人生の経験。この瞬間から次の瞬間の間に何が起こるかもわからない。それまで抱いていた世界に対する確信が一瞬にして砕け散る。哲学的な言い方をすれば、偶然性の力ということ。(中略)こうした謎に対して私たちはいつも心構えをしておこうとしますが、結果はじつに悲惨である、と同時にコミカルなものになりうるわけです。」
また、こうも語っている。
「私にとって孤独というのは複雑な用語です。さびしさや孤立の同義語、というだけではありません。孤独を陰鬱な概念と考える人も多いようですけれども、私はそこにネガティブな含みを持たせたりはしません。単なる事実であり、人間であることの一つの条件なのですから。私たちは他者に囲まれてはいても、本質的には自分の人生をひとりで生きている。本当の人生は、私たちの内面で起こるものなんです。自我の感覚は私たちの内面の意識の脈動、果てなき独白、死ぬまで続く自分自身との対話によって形づくられています。そしてそれは絶対的な孤独の中で起こるものなのです。」

小説に於いて、この“偶然”という設定は、ご都合主義と受け取られる事も多々あるのだが、オースターの手にかかると、この“偶然”が紡ぎ出す物語が全ての本質へと繋がっていくのだ。そこにオースターの月並みではない力量と魅力を感じずにはいられない。

私たちの平凡な人生にもそれぞれ出会いがあり、別れがあり、偶然のような出来事の繋がりが現在の自分を形成している。地球上の70億という人々の中から出会った自分の周囲の人たち。それは本当に単なる偶然だろうか?それが偶然でなく必然かも…と思った時から人生は面白く豊かなものになっていくような気がする。そして、ポール・オースターの言う“偶然の持つ力”を信じる限り、希望を持ち続けることも出来るのではないだろうか。


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