本:多くを教えてくれる

孤独を愛し桜を愛した漂泊の歌人

「西行」

白洲正子 著



 平安時代に興味を持って調べていたところ、面白い話を見つけた。なんと平安時代に西行法師が人造人間を造っていたという伝説である。
西行が高野山に滞在していた時のこと。修行仲間が京都に帰ってしまい寂しくなった西行は、人恋しさのあまり以前ある人に教えてもらった人造人間製造を思いたつ。荒野で人骨を拾い集めて人体の通りに並べ、秘薬を塗って術を施すと人間のようなものが出来た。しかし、それは不格好でまったく人間らしさがなく、まともに喋ることも出来ず壊れた楽器みたいな声を発するだけ。失敗だ、と処分を考えたが、破壊するのは人殺しみたいで気分が悪い。結局、人里離れた山奥に捨てた。後に都に上った際、その方面に詳しいある貴族にその話をすると、正しい方法を詳しく教えてくれたが、なんだかつまらない気がしてきて人造人間を作ることは二度となかったという。しかも、この貴族はこんな発言もしている。「実は、朝廷の公卿の中にも人造人間がいるんだよ。誰とは言えないがね。言うと、作った者も作られた者も消滅してしまうから…」と。
これは鎌倉時代成立の「撰集抄」という書物の中にあるエピソードらしいが、平安時代にこんな人造人間伝説があったことに驚いた。この逸話を知ってから、西行という人物に興味を持ったのが本書を読んだきっかけである。
 「西行」は、白州正子が西行の足跡をたどって書いた西行論で、さまざまな資料を検証し、実際に西行が歌を詠んだと言われている土地や、各地の庵室跡に赴くことで西行像に迫っている。白州正子は西行を数奇者(すきしゃ/風流人の意)として考察し、当時の政治背景にも言及しているが、分かり易い語り口なので平安時代から鎌倉にかけての歴史もよく分かる。武家が興隆し王朝が没落していく時代の流れの中、崇徳院と強く関わっていたり、同い年の平清盛や源頼朝、源義経とも面識があったという史実も興味深い。
 西行(1118年~1190年)は、祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、宮廷では京都の治安を守る検非違使の武官を勤めた家柄だった。幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(皇室の警護兵)となり、18歳のときに鳥羽上皇の親衛隊である北面の武士(一般の武士と違って官位があった)に選ばれた。これはたいへんなエリートコースらしい。「北面」の採用にはルックスも重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられている。同僚には彼と同い年の平清盛がいたという。北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価された。武士としての実力も一流で、疾走する馬流鏑馬(やぶさめ)や蹴鞠の達人だった。文武両道で美形。輝かしい未来は約束されたも同然だった。
しかし、西行は1140年、23歳の若さで突然出家する。出家の理由は、急死した友人から人生の無常を悟ったとか、“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋など諸説あるが、定かではない。
出家の際、衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話も残っている。阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号とした。
当時、西行が20歳過ぎの若さで官位を捨てたことは人々の注目を集めたらしい。西行がどの宗派にも属さず地位や名声も求めず、山里の孤独な暮らしの中で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのも通常と異なっていた。
西行は出家後も心の迷いや弱さを素直に読んでいる。
『いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ』(いつになれば長い迷いから覚めて、万事に不動の心を持つことができるのだろう)
『花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に』(この世への執着を全て捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろう)
 西行は出家後しばらく高野山にこもって修行をしていた。その後、高野山を出て1168年に中四国へ旅立った。このとき讃岐国の善通寺でしばらく庵を結んでいる。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ね、その霊を慰めたという。また、この旅は弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。
 西行は亡くなる十数年前に、次の歌を詠んでいた。
『願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃』(願わくば満開の桜の花の下で春死にたいものだ、2月15日の満月の頃に。※如月の望月=2月15日。釈迦の命日)
西行があの世へ旅立ったのは2月16日。73歳だった。
この報せを聞いた都の人々の間には一大センセーションを巻き起こったという。『願はくは花のもとにて春死なむ』と歌った西行が、まさに『その如月の望月』に亡くなったことに名のある歌人たちはみな感動し、多くの歌を残した。
 歌人として有名な西行だが、高僧としての凄みを感じるエピソードも残っている。
西行と同時代に生きた文覚という僧侶は荒法師として知られていた。西行同様、元々は北面の武士だったが、恋人(人妻)の夫を殺そうとして誤って恋人を殺してしまい、出家したと言われている。文覚は、神護寺の再興を訴えて後白河法皇の不興を買い伊豆へ流されるが、ここで源頼朝と対面し、感じ入った頼朝は、文覚に帰依したという。文覚もまた、怪僧というべき存在だった。文覚は、僧侶でありながら修業もせず歌道の研鑽ばかりしている西行を嫌っており、「出会う機会があれば、(西行の)頭を打ち割ってやる」と公言していた。そんな折、文覚が再興を進めた神護寺の法会に参列した西行は、文覚に一夜の宿を頼んだ。文覚は、しばらく西行を見つめていたが、やがてねんごろに招き入れて歓待して翌朝に西行を帰してしまった。見守っていた文覚の弟子たちが、文覚の言動が日頃と違うことを指摘すると、文覚は「あれ(西行)が文覚に打たれるものの面構えか、文覚こそ打たれるべきものだ」と言ったという。
頼朝を圧倒した文覚ですら圧倒した西行の凄みはとは如何ほどだったのだろう。
また、西行は69歳で奥州へ赴く際、当時40歳の源頼朝とも鎌倉で対面している。頼朝が弓馬のことと和歌のことを西行に尋ねた時、西行は「弓馬のことは九代相伝の兵法書が焼けましたし、罪作りなことは全て忘れました。和歌の道については私など花や月に心が動いた時に31文字に詠むだけで特別な秘訣などは知りません」と答え、それでも諦めない頼朝が夜を徹してしつこく聞き続けたという。ちなみに、その御礼に拝領した銀製の猫を門前で遊んでいた子どもに与えて立ち去ったという逸話も残っている。西行は後世まで伝説として語られるような、人を惹きつける魅力を持った人物だったのだろう。
 白洲正子は、西行には結構荒々しい面もあったと分析している。出家後も待賢門院のところの女房たちや通りすがりの遊女相手に粋な歌のやりとりをしたりという艶やかさもあったようだ。白洲正子は後記にこうも書いている。「総じて辻褄が合うような人間はろくなものではなく、まとまりがつかぬ所に西行の真価がある」
平安末期の動乱の世を生き、各地を放浪した西行。花や月に心を寄せ、内面の孤独や寂しさを自然体で詠んだ和歌の素晴らしさは、松尾芭蕉など後の歌人達にも大きな影響を与えた。孤独と自然の中で西行が行き着いた境地とは果たしてどんなものだったのだろうか。
今までは掛け軸や銅像で時々見かけるお年寄り、という印象しかなかったが、本書を読んで西行の魅力に気づかされた。桜の季節に身近に残る西行の足跡を訪ね歩いてみようか…という気持ちにさせられる1冊だった。
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