本:多くを教えてくれる

蜃気楼のように不思議な物語

「押絵と旅する男」

江戸川乱歩



 独特な描写と世界観で根強いファンを持つ江戸川乱歩。
乱歩の魅力は、なんといっても読者の好奇心を刺激する作風だろう。少年愛、少女愛、人形愛、猟奇趣味やエログロなど、変態のデパートと呼べるような乱歩ワールドは倫理的タブーに触れているものも多く、怖いもの見たさで見てはいけない世界を覗き見ているような背徳感に浸ってしまうのだ。
乱歩自身は論理的な本格ミステリーが大好きで、自分もそういうものを書きたかったそうだが、彼の才能は通俗冒険ミステリーの分野で受け入れられた。書きたいものと書けるもののギャップに苦しんだ乱歩は、何度も休筆を繰り返している。また、乱歩の経歴を見ると、転職歴と引っ越し歴が非常に多い。三重県名張市生まれだが、幼少時に父親の転勤で引っ越しをしたのを皮切りに、大人になっても引っ越しを繰り返し、生涯の引っ越し回数は46回。作家になる前の転職回数も30回を超えている。そうした経験からも豊富な知識と発想力が生まれたのだろう。
乱歩は自伝的エッセイの中で自らを“厭人癖”と表現しているように、人づきあいが苦手な性格で、薄情にされたり無愛想にされたりすることに人一倍敏感なくせに、気にしていない様な無表情を貫きつつ内心激しい現実嫌悪を感じている屈折した少年だった。友達も少なく、夜道を歩きながら独り言を喋り続けていたという。しかし、空想世界を極めた少年は時代を超えて多くの人を楽しませる大作家へと成長した。生涯さまざまなものを偏愛した乱歩だが、レンズにも常人には理解できない執着を持っていた。「押絵と旅する男」には、そんな乱歩の視覚・映像へのこだわりも色濃く反映されている。
ちなみに「鏡地獄」という短編では、凹面鏡に映った自分の姿を見たことがきっかけでレンズ嗜好を加速させていった男が、内壁に水銀を塗った球体の鏡のなかで発狂するという、こちらも乱歩ならではの狂気が描かれているので、お好きな方はぜひ一読していただきたい。
「押絵と旅する男」は乱歩が「一寸法師」の連載終了後、自己嫌悪にかられて休筆を宣言し、日本各地を放浪している時、魚津へ蜃気楼を見に行ったのがきっかけになって書かれたものである。自らの作品に厳しい乱歩が珍しく「私の短篇のうちで最も気に入っているものの一つ」と言ったことでも有名である。
この物語は主人公が蜃気楼を見に行った帰りの汽車で、老人のような男に出会うところから始まる。男は二人の男女が描かれた押絵を持っていた。その押絵は、まるで生きているように精巧にできており、遠眼鏡(とおめがね)を通して見ると、生気に満ちていて心音すら聞こえるほどだった。しかし女の方は艶めかしく美しいのに、絵の男は白髪の老人で、その顔は苦悶の表情に満ちていた。私が不思議な絵に心奪われると、男はこの絵の由来を語り出す。
男には兄がいた。あるとき遠眼鏡を手に入れた兄の様子がおかしくなった。後をつけると十二階建ての浅草凌雲閣へと登っていく。そして最上階から一心不乱に遠眼鏡を覗いている。兄は一度だけ見た娘が忘れられず、毎日遠眼鏡を覗いて探し回っていると言った。
そして、ついにその娘が見つかる。それは押絵細工に描かれた八百屋お七だったのだ。娘が押絵だとわかっても兄の恋心は消えなかった。「一度でいいから押絵の中の男になって、この娘さんと話がしたい」と言った。
それから兄は男に遠眼鏡を逆にして自分を覗かせる。逆にした遠眼鏡の中で兄は押絵の人物ぐらいの小ささになり消えていた。兄は押絵の中に入っていたのだ。男はその押絵を買い求め、兄たちを新婚旅行に連れて行った。今日は久しぶりに東京の街を見せてやろうと思い押絵を持ち出したのだという。押絵の中の娘は美しいままだったが、兄はすっかり年老いて白髪に成り果て、なんとも悲痛な表情をしていた。話を終え、山間の小さな駅で降りていく男の後ろ姿は絵の中の男そっくりだった…。
 “絵の中に人間が入り込んでしまう”という設定はよくあるが、乱歩特有のどこか妖しい語り口にどんどん引き込まれる。まず、蜃気楼を見た帰りの列車で、老人から嘘か真実か分からない不思議な物語を聞くという始まり。幻想的な世界への入り口に蜃気楼の描写が非常に効いている。また、遠眼鏡という小道具を使って正常な距離感を反転させるという発想も乱歩らしい。
蜃気楼は日常と異なった別世界へ導く魔力を持った装置として。
遠眼鏡は男の兄と絵の娘、主人公と絵の中の二人の正常な距離感を狂わせる装置として。
他にも浅草の見世物小屋や凌雲閣といったモチーフが散りばめられていて、物語全体に不思議な懐かしさが漂っている。
 美し過ぎる絵に魅了されてしまった兄の話も、じわじわと恐ろしさを感じさせる。なぜ押絵の老人は悲痛な表情をしているのか?身動きの取れない無限地獄に飛び込んだ自分を後悔しているのか?それとも、いつまでも美しい娘の傍らで老いていく自分を恥じているのか?最終的に押絵の中で朽ち果てていくのか…いろいろな想像を巡らせてしまう。
そして終盤、蜃気楼を見るための旅に出たはずの主人公は、友だちに「そんな旅には出かけていない」と言われる。すべて主人公の見た夢だったのか。どこまでが真実なのか分からないまま物語は蜃気楼のように終わる。異世界に迷い込んだような、少し不気味で切ない短編だ。

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