本:多くを教えてくれる

折口信夫が織り上げる幻想的な古代世界

「死者の書」       折口信夫
(1887~1953)



『死者の書』の舞台は、当麻寺を麓にもつ二上山(にじょうざん)である。二上山は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる山で、かつては「ふたかみやま」と呼ばれていた。二上山は、大津皇子伝承や中将姫伝説が残っている場所である。
『死者の書』も、中将姫(作中では藤原南家の郎女)が麓にある当麻寺で出家し、阿弥陀仏の助けを借りて蓮糸の曼陀羅を織り上げ現身のまま成仏した、という伝説が基になっている。

天武天皇の子である大津皇子は、天武の死後、叔母であり天武の后である持統天皇に疎まれ、謀反を理由に殺されて、二上山に葬られてしまう。
それから約百年の時が経った。墳墓の中で無念の思いで目覚めた王子の霊は、周囲を見回し独白を始める。そして既に朽ち果てて衣のないことを嘆きつつ起き上がろうとする。
一方、奈良に住む信心深い藤原家の郎女(いらつめ)は、その目覚めに感応し、阿弥陀経の千部写経を達成した後、神隠しにあったように姿が見えなくなる。郎女は、一人で二上山の麓の当麻寺まで歩いてきたのだ。寺の浄域を侵した郎女は、物忌みで閉じこもることになるのだが、それから、大津皇子と藤原郎女は夢ともうつつともつかぬ場所で出会う。
彼女は、衣を持っていない大津皇子のために苦心して蓮糸で布を織り上げる。が、それは棺にかける布のようで寂しく見えた。郎女は思いついて奈良の家から彩色を取り寄せ、幻に見た華麗な浄土図を布に写し取り完成させていく。そして、かぐや姫のように姿を消す―。

この作品の特徴は、さまざまな擬音に満ちていることだ。冒頭の「した した した」と水の滴る音。「こう こう こう」と魂乞いをする声。「つた つた つた」という跫音。
ひらがなで書かれたこうした音は耳に残り、記憶の深い部分に響くような感覚を覚える。音や言葉の持つ力を、折口信夫はよく知っていたのだろう。
また、物語の背景には古代日本人にまつわる二つの観念が埋めこまれている。ひとつは山中他界の観念。これは山越阿弥陀や当麻曼陀羅につながっている。もうひとつは夕陽が沈むところに浄土があるという日想観である。これも浄土曼陀羅につながっている。

折口信夫は、民俗学者・国文学者・神道学者であり、釈迢空(しゃくちょうくう)のペンネームで、詩集や歌集など多くの詩歌も残した。言語学、宗教学、短歌、小説など多くの領域で一流の著作を残している。
中でも最大の功績は日本人の神観念に「マレビト」という概念を持ち込んだ事である。1929年「マレビト」論は初めて発表された。折口信夫はこのような「マレビト」の故郷として「常世」という他界を想定し、そこから「マレビト」が訪れ、幸せをもたらすという構造に日本の古代信仰の根源があるとした。
常世とは死霊の住まう国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていた。農村の村人達は、毎年定期的に常世から祖先の霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持っていた。それが稀であったので「マレビト」と呼ばれるようになったという。現在のお盆行事も、このマレビト信仰と深い関係があると考えられる。
折口自身は「マレビトとは何か。神である。時を定めて来り、臨む大神である。(大空から)あるいは海のあなたから、ある村に限つて富みと齢とその他若干の幸福とを齋して来るものと、その村の人々が信じてゐた神の事なのである。」と述べている。
折口学と呼ばれる学問大系はこの「マレビト」を中心に成立していると考えて良いだろう。

折口は、師である柳田國男に沖縄行きを勧められ、沖縄に残る古の「型」「もの」に感動し、そこで得た直感や経験が彼の学問の基礎になったと言われている。そこに天性の文学的才能も加わり、折口は独自の言葉を駆使した論文を発表した。しかし、最初にそれを心よく思わなかったのは柳田國男だった。
柳田が民俗現象に合理的な説明を付け、日本文化の起源に遡ろうとしていたのに対し、折口はマレビトやヨリシロという独創的概念が日本文化の起源にあると想定し、そこから諸現象を説明しようとしていた。
二人は師弟関係にありながら正当だと思う所はお互い譲らず、真理を追求する学者同士の間柄だったと言えるだろう。事実、折口は柳田を生涯にわたり尊敬していた。

また、これも有名な話だが、折口は同性愛者であり、養子の折口春洋(旧姓藤井)は事実上の配偶者だった。加藤守雄という弟子に関係を強要したことでも知られている。このような折口の性的嗜好に対しても柳田國男は常に批判的で、折口の前で加藤に向かって「加藤君、牝鶏になっちゃいけませんよ」と忠告したこともあるという(牝鶏という言葉は、男性同士の性行為を意味する鶏姦という言葉と関係があり、いわゆる稚児を指す)。 生活能力に乏しい折口は、公私共に信頼していた弟子の藤井春洋を養子にしたが、それは春洋本人は知らない事だった。春洋は、柳田國男が保証人であるその養子縁組を知ることなく硫黄島へ出征してしまった。そして間もなく、折口のもとへ春洋の訃報が届いた。

評論家の福田和也氏は、『死ぬことを学ぶ』という著作の中で、折口信夫の墓ついてこう触れている。
「墓荒らしの跡のような、荒廃した風情。共同体から、何らかの理由で排除された人たちの墓、あるいは共同体の墓所から追放された人たちの墓なのではないか。そう思いました。その有様に緊張していると、その真ん中に、折口と春洋の親子塚がありました。その瞬間、私は、理解したように思ったのです。
折口が、徹底したアウトサイダーだという事を。日本文化の正統にたいして、刃をつきつけ続ける、確信的な反逆者なのだ、と。
巣鴨の染井墓地にある、柳田國男の墓の堂々たる姿と、誠に対象的な墓でした。これほど、一目ですべてが解ってしまう墓もないでしょう。折口は恐ろしい…。
『死者の書』も、『古代感愛集』も恐ろしかったけれど、この墓ほどは怖くない。墓をまごう事なく作品に、自らの存在証明にしてしまっている。少なくとも、その鋭利さにおいては、古代エジプトの王たちや、中国の皇帝たちに勝っているとすら思う」
また、福田氏は『人でなし稼業』の中でこうも述べている。
『(略)この折口ってのは、それまでの国文学の歴史をみんなひっくり返したとんでもない奴で、今どきの学者は折口の仕事の残り滓をあさって辛うじて偉そうな顔をしてるってほどの大学者なんだ。戦前はコカインは非合法じゃなかったから薬局いけば買えたんだ。それでも折口先生は吸いすぎて鼻の粘膜がボロボロになって血を噴いたっていうからね。実際鼻血だらけの原稿用紙が残ってるんだ。(中略)それに少年愛でね、弟子はみんな丸刈りにしてメガネをかけさせていた。それが先生のお好みだったんだな。目星をつけたのには、しつこくしつこく迫って、学問は頭からだけ入るもんじゃないとかいって襲ったり。与太じゃないよ、命からがら逃げた弟子がちゃんと書いているんだから。」

こういうエピソードを知ると、折口信夫という人物像にもかなり興味をそそられてしまう。そんな、とんでもなくぶっ飛んでいた大天才・折口信夫の『死者の書』は今なお私たちを刺激し続けている。本書は間違いなく日本の文学史上最高傑作と呼べる一冊だろう。
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