本:多くを教えてくれる

孤高の天才が選んだ生き方

「完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者」

    マーシャ・ガッセン



 ミレニアム懸賞問題というのをご存じだろうか?
2000年にアメリカのクレイ数学研究所が発表した数学上の未解決問題で、なおかつ重要性が高いと思われる問題である。全部で7つあり、証明すれば100万ドルの懸賞金がかけられている。
「ポアンカレ予想」は、そのミレニアム懸賞問題の一つである。1904年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレが提起し、以来ほぼ100年間にわたり未解決だった。
今世紀中の解決は無理だと言われたこの問題を解いてしまった人物。それが本書の主人公、ロシア人数学者のグリゴリー・ペレルマンだ。
 しかし、世紀の難問を解いたペレルマンは、数学界における最高の栄誉フィールズ賞を拒否し、賞金100万ドルも受け取らず、すべての連絡を絶った。なぜ彼は世間はおろか数学界との接触も断ち、元数学教師の母親とアパートでつましく暮らしているのか。本書は、天才数学者グリゴリー・ペレルマンという人物像に迫ったノンフィクションである。
「ポアンカレ予想」については、文系の私には概念すらさっぱり分からないので、棚上げしておく。実際本書でもポアンカレ予想に触れている部分はごく僅かで、数学に関する話もほとんど出てこないので文系の人間も安心して読める。
 著者は、ペレルマンと同時代に旧ソ連で数学のエリート教育を受けた人物で、数学専攻後アメリカへ移住したジャーナリストである。著者はペレルマンに関わった人たちにインタビューするなど綿密な取材を通じて、ペレルマンという天才数学者の人間像を見事に描き出している。
ペレルマンは、1967年モスクワ生まれ。幼少期に母親から数学の英才教育を受け、自らも数学や科学を好んでいた。少年期から大学時代にかけて、ソビエト共産主義体制の中でペレルマンという天才が、ユダヤ人だという理由だけで不当に扱われるのは間違っていると考えた教師や、勇気ある人物が最大限の手助けをしている。ペレルマンを大学院に入れるために、レニングラードの数学者コミュニティやアカデミー会員たちが総出で戦おうとしたというのだから驚く。それぐらいペレルマンが天才的だったという事だろう。しかし、驚いたことに本人は差別されたことを認識していなかったようだ。数学という才能ゆえに庇護され、世の中の汚い部分を見ないまま大人になったペレルマンは、天才ゆえの純粋さと孤独を抱えていたのかもしれない。
 天才とは往々にして、凡人は考えもしない行動を取ったり、思想を持っていたりする。特に、科学者や数学者といった理系の天才には、実にユニークな変わり者が多いような気がする。
ペレルマンという人物も、日常生活では何かと問題があったようだ。風呂に入らない、服を着替えない、爪を切らないと言った部分から、自分にも他人にも厳しいルールを押し付けてしまうという面まで、とにかくペレルマンは周りに面倒をかける男だったという。ペレルマンは、一般的な規則や慣習とは相容れないことが多く、また、様々な点において独自のルールがあり、それが世間のルールとかみ合わなかった。こういう逸話を読むと、確かに世間とは上手くやっていけないだろうな、と思わされる。
 ペレルマンはポアンカレ予想に取り組む前後から人間不信が酷くなり、数学界にも不信感を抱きつつあった。36歳のペレルマンは、権威ある学術専門誌に論文を掲載するという一般的な方法を取らず、2002年11月12日、アーカイブと呼ばれるシステムに、とことん切り詰めた論文を投稿した。当初は誰が論文を書いたか分からず信憑性に欠けるとされた。しかし、その投稿者がペレルマンだと判明すると数学界に衝撃が走った。早速、ペレルマンを呼び出し解説させたが、その解説を聞いた数学者は誰一人理解できなかったという。ペレルマンは誰も思いつかなかった非常に独創的な手法で世紀の難問を解決したのだ。論文は4人の当該分野の第一人者が2年もの歳月をかけて検証し、2006年にその正しさが認められた。
 しかし、ペレルマンは世界中の一流大学から舞い込んだポストの申し出もすべて断った。この事について、ペレルマンは「次のような例を考えてみてほしい。出版社が作家を招いてこう言う。私はあなたの作品はどれも読んだことがありません。実を言えば、どの作品であれ、最後まで読んだことのある者は我が社には一人もいないのです。でも、あなたは天才だそうですから、契約書にサインしていただきたいと。」と述べている。確かにこういう喩えで説明されると、ペレルマンが大学からの招聘に応じなかったのも理解出来る気がする。
実はペレルマンの人間不信が加速した大きな理由のひとつに、ヤウ・シントゥンが教え子の中国人を持ち上げ、ペレルマンを蹴落とそうとした事があるといわれている。
また、マイケル・フリードマンという、ポアンカレ予想の四次元版(ペレルマンが解いたのは三次元版で、三次元版のみが最後まで残っていた)を解決した数学者が、ペレルマンの仕事を遠回しに批判した事も理由であるようだ。
 純粋に数学を愛していたペレルマンは、このような数学界の対応に嫌気がさし、それについてメディアが面白おかしく取り上げる事にも怒りを顕にした。こうした出来事がペレルマンの人間不信に拍車をかけたというのである。ペレルマンは現在、故郷で母親と共にわずかな貯金と母親の年金で細々と生活しているらしく、メディアとの接触は拒否、ペレルマンの知人も彼の連絡先を教える事を拒んでいる。人付き合いを嫌うペレルマンの趣味はキノコ狩りだという。
人生を研究に捧げる学者にとって、最も重要なのは真理を解明することだろう。彼らは理論の証明に人生を賭けているのであって、そこに損得勘定はないはずだ。
信頼していた数学界と人間関係に失望した超純粋な天才。世俗的な価値観とはかけ離れているが、その真理を追求する事だけに魂を燃やすような彼の生き方に、底知れぬ魅力を感じてしまうのだ。
本トップ