本:多くを教えてくれる

辞書の中に潜む謎の人物

「 新解さんの謎」    赤瀬川原平
(1937~)



国語辞典って、分からない言葉や文字を調べる時にだけ使うものだと思っていないだろうか? そんなお堅いイメージのある国語辞典だが、三省堂の「新明解国語辞典」は個性的な語釈や例文が面白いと、密かなファンが多い国語辞典なのだ。赤瀬川原平の「新解さんの謎」は、この「新明解国語辞典」から面白いものを抜き出し、雑感等を挟んだエッセイ集といった内容になっている。「新解さんの謎」の帯には“怪人現わる! 女に厳しい、金がない。魚が好きで、苦労人 辞書の中にひそむ男の気配 辞書のページをかき分けて言葉の森の奥深くに迫る「新解さんの謎」に加えて巷に氾濫するチラシの生態から、余白と地球環境、紙と神の怪しい関係等々を考察する「紙がみの消息」を収録。深遠かつ抱腹絶倒の豪華二本立て・原平ワールド”という魅惑的なコピーが書かれている。

本書は赤瀬川氏が一目置いている女性SM嬢(これは単純にイニシャルだそうだ)からの電話で幕を開ける。彼女は「新明解国語辞典」の面白さに取り憑かれているらしい。彼女の話を聞きながら、赤瀬川氏も「新明解国語辞典」に目を通してみる。すると確かに辞書らしからぬ解説が随所にある。例えば
・れんあい【恋愛】-する 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。
「出来るなら合体したい」などというその辞書らしからぬ解説を読んで、赤瀬川氏は「読書のような気持になった。辞書なのに」と書いている。 かくして赤瀬川氏もまた新解さんの魅力にどっぷりはまり、初版から第4版までの「新明解国語辞典」を通じて新解さんの謎を解き明かそうと試みる。

新解さんは公務員に厳しいという特徴も垣間見える。
・せいれん【清廉】心が清くて私欲が無いこと。〔役人などが珍しく賄賂などによって動かされない時などに言う語〕(初版~第4版)
・やくにん【役人】公務員。「役人根性(=役人特有のおうへいで、融通のきかない考え方)・小役人」(第3版)
・こうぼく【公僕】〔権力を行使するのではなく〕国民に奉仕する者としての公務員の称。〔ただし実情は、理想とは程遠い〕(第3版~第5版) 他にも
・じっしゃかい【実社会】実際の社会。美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞とが充満し、毎日が試練の連続であると言える、きびしい社会を指す←新解さんは一体どんな人生を送ってきたのだろう、と思わず考えてしまう。
・たりる【足りる】…するに十分である。まにあう。「五千円あれば一週間は何とか-」←あまりお金持ちではないようだ。
・いっきに【一気に】(副)ある事が契機になり、以前からの懸案を図らずも達し、問題を解決したり、局面が展開したりすることを表す。「従来の辞典ではどうしてもピッタリの訳語を見つけられなかった難解な語も、この辞典で-に解決」←ちゃっかり宣伝までしている所が何だかかわいい。
・どっぷり(副)液体を十分に含ませたり湯水などに十分に浸ったりすることを表わす。「おそばのタレは、たっぷりとつけたい。たっぷり、というより-といった方がいい」←完全に個人的な好み。
・うれしい【嬉しい】(形)「あいつもだめだったかと思うと、嬉しくなっちゃう」←分かります。

といった具合に、新解さん個人の体験談や感想としか思えないものや、前後のストーリーを想像したくなるようなものなど、辞書にあるまじき語釈・例文が数多く載っている。 本書の巻末を読むと、赤瀬川氏が正式に三省堂の許可を得て「新明解国語辞典」の初版から第4版を引用していることが分かる。中でも第4版は最高傑作と呼ばれており、かなりレアものらしい。しかし、残念ながら改訂を重ねるにつれて、本書で紹介されている例文の多くも改められているそうだ。本書を読むと「新明解国語辞典」の第4版がどうしても欲しくなる(実際、私は買ってしまった)。

「新明解国語辞典」の中に見え隠れする謎に包まれた新解さん像を探る楽しみ、まるで文学作品のような想像力をかき立てられる例文。これは他の国語辞典にはない楽しみだ。もちろん、正当な辞書として利用できることは言うまでもない。

赤瀬川原平は、前衛美術家であり、随筆家、作家でもあるので目のつけどころも文章も面白い。この「新解さんの謎」にしても、路上観察学会や、「トマソン」、「老人力」にしても、多方面でマルチな活躍をする赤瀬川氏が世の中を斬る着眼点、発想力にはいつも脱帽させられる。 本書の巻末を読むと、赤瀬川氏が新解さん(編集主幹の山田忠雄氏)にいちど仲介を通して会見を申し込んだことがあると書かれている。その結果は「まあ会わんほうがええでしょう」という、いかにも新解さんらしい返事だったそうだ。 また、赤瀬川氏はこうも書いている。「疑問にはとにかく答を、そして、次行きましょう、という主義の人には、新解さんは見えないだろう。(中略)世の中は新解さんのわかる人と、新解さんのわからない人とに分かれるんじゃないか…」
確かに新解さんがわからなくても生きて行くのに困る事はないかもしれない。しかし、味気ない日常やモノの中から面白い事を見つけ出す目、これがある方が人生も楽しいはずだ。 もし、私がどこかで「新明解国語辞典」を熟読している人を見かけたら、きっと凄く嬉しいだろう。 「新解さんの謎」は、国語辞典というものの概念を180度変えてくれる、貴重で愉快な1冊である。
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