本:多くを教えてくれる

日本語の素晴らしさを再認識させてくれる珠玉の物語

「夜叉ヶ池」

泉鏡花(1873~1939)



 泉鏡花は日本の文壇上でも特別な存在である。
芥川龍之介は「泉鏡花の文章の書き方と筆致が美しさと古風の枯れを兼備して、ほとんど日本語が達成することができる最高の程度だと言うことができます。(中略)全体の日本の文芸の建築した高くそびえるピラミッドです」と述べ、川端康成は「日本は至る所すべて花の名所で、鏡の花の作品は情趣の名所です」と述べている。
 泉鏡花は“言葉に霊が宿る”ということを信じる作家であった。彼は新聞の切れ端でも何でも、少しでも文字の書かれたものはおろそかにしなかったそうだ。また、人に字を教えるのに畳の上などに空で書いた後は必ず手で掻き消すしぐさをしないと承知しなかったという。
言葉ひとつにここまでこだわる泉鏡花の作品は、やはり原文に近い形で読まないと本当の美しさが分からないのかもしれない。しかし、100年ほど前の文章なのに、すらすら入ってくる部分と難解な部分の差が激しく、現代小説ばかり読んでいる自分の国語力がいかに低いかを思い知らされるが、決して読みにくいという訳ではない。本書のリズムに慣れて来ると自然と物語の中に引き込まれ、頭の中に情景が映像として浮かんでくる。
 1913年(大正2年)に発表された『夜叉ヶ池』は、岐阜県に実在する夜叉ヶ池に昔から伝わる龍神伝説を基に創作された戯曲である。
舞台は1日に3回鐘をつかないと夜叉ヶ池の主・龍神が水害を起こすという言い伝えのある村。しかし、そんな伝説を信じる者は村にはほとんど残っていなかった。この話を唯一信じていたのは身寄りのない美女・百合と、偶然都会からやって来て彼女に心を寄せた青年・萩原晃の2人だけである。萩原は故郷を捨てて鐘つき番となり、百合と山奥で暮らしていた。
夜叉ヶ池の龍神・白雪は、遠い昔に人間と交わした鐘の約束よりも、白山剣が峰の恋人の元へ行きたくて仕方がない。しかし、彼女が動くと大洪水となり約束を破るとこになると眷属たちが止めるのを疎ましく思い「鐘さえなければ」と鐘を壊そうとする。しかし、鐘つき堂で子どもをあやす百合を見て「私がこの村を沈めたら、美しい人の命もあるまい。鐘をつけば仇だけれども、この家の2人は、嫉ましいが、羨ましい。姥、おとなしゅうして、あやかろうな」と思いとどまる。
おりしも村は、何年ぶりかの大日照りが続いていた。村人たちは夜叉ヶ池に生贄として捧げるために百合を差し出せ、と鐘つき堂へやって来る。百合が自害し果てたのち、村人たちは「鐘をついてくれ」と萩原に懇願するが、萩原に拒否される。
そして、村人たちは“自分の任務を全うせず他の者に押し付け、なおかつよそ者の女までを生贄に供した”と眷属たちに屠り殺され、村は水の底に沈んでしまう。
龍神・白雪の「姥、嬉しいな」という最後の言葉が、妖しくも印象的。実は白雪も、先の日照りのときに生贄にされた娘だったのだ。
最終的に村を崩壊に追いやってしまう白雪の行為は、ひどく残酷なのに美しい。妖怪たちは、昔から醜い人間たちの欲深さ、浅はかさを嘲笑っていた。人間たちは荒唐無稽とも言える生け贄などの儀式を通して、妖怪が引き起こす自然の災いから我が身を守ろうとした。相容れる事の無い妖怪と人間。生前社会への強い怨念の表現。鏡花の作品は、現実と幻想世界の区別がつかなくなってしまう人間を描いたものが多いが、本作も独自の文体とロマンチシズムで鏡花にしか描けない世界が展開されている。
 泉鏡花の作品は、幽霊や妖の類が登場することが多い。彼自身、幽霊や妖の存在を信じていたようである。鏡花はこれを、両親の信仰に影響された彼自身の迷信的な性質によるものだと言っている。
泉鏡花(本名鏡太郎)は1873年(明治6年)、金沢市下新町に生まれた。父は象嵌細工の工芸家、母は鼓の名手という両親を持ち、文化と工芸の町・金沢で育ったことが泉鏡花の華美な世界の原点になっているのだろう。
彼は『おばけ好きのいわれ少々』というエッセイで、次のようなことを述べている。
「ぼくは明らかに世に二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強いてひとまとめに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか。共に人間はこれに対してとうてい不可抗力のものである。鬼神力が具体的に吾人の前に顕現するときは三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一本足の傘の化物ともなる。世にいわゆる妖怪変化の類はすべてこれ鬼神力の具体的現前に外ならぬ。…ぼくは一方、鬼神力に対しては大なるおそれをもっている。けれどもまた一方、観音力の絶大なる加護を信ずる。(中略)自分にとっては最もおそるべき鬼神力も、またあるときは最も親しむべき友たることが少なくない。」
彼の観ずる世界においては、人間が生活している世界の他に、一段上の世界として鬼神力や観音力の支配する世界が存在する。この世界の住人は基本的に人間に危害を加えることはない。しかし、愚かな人間がこの世界の掟を侵そうとすると、たちまち人間に襲いかかるのだ。
また、鏡花はあるところで、
「善と悪とは昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、そこには、滅すべからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさういふ黄昏的な世界を主に描きたい」「たそがれの味を、ほんたうに解してゐる人が幾人あるでせうか」「朝でも昼でも夜でもない一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です」とも述べている。そんな鏡花の信仰を垣間見ることが出来る作品群は、どれも妖しく幻想的で、読者を惹きつけてやまない。
 日本古来の文化と深く繋がった鏡花の世界は、再評価の声も高いという。怪しく美しくドラマチックな展開。エンターテイメントとしても高い完成度を誇る泉鏡花の作品は、日本文学屈指の幻想小説であると言えるだろう。
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