本:多くを教えてくれる
古今東西の文学エッセンスを融合させた20世紀の傑作

「ユリシーズ」 ジェイムズ・ジョイス
(1882〜1941)
丸谷才一、高松雄一、永川玲二/訳





アイルランド生まれの作家ジェイムズ・ジョイスが1922年に発表した長編小説。この小説は、20世紀最高の文学作品だと言われているが、内容は、“朝、リアポルド・ブルームが家を出て、夜遅く家に帰る”という、それだけの物語である。それだけの内容を、これほどまでに難解で斬新で実験的な作品に仕立て上げているところに、この作品の凄さがある。

題名の「ユリシーズ」は、古代ギリシャのホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスの英語読み。つまり、「ユリシーズ」は「オデュッセイア」のパロディになっていて、「ユリシーズ」の主人公ブルームは、「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスに相当する。
オデュッセウスは、トロイの木馬を使ってトロイア軍に奇襲攻撃を仕掛け、ギリシャ軍を勝利に導いた伝説の名将だ。「オデュッセイア」では、オデュッセウスがイタケ島に帰るまでの10年に亘る大冒険が綴られている。オデュッセウスは頭が切れる上に、武勇にも優れた男で、女神アテナのお気に入り。当然、行く先々で誘惑を受けるが、最後には妻と子の待つ我が家を目指す。また、オデュッセイアの妻ペネロペイアは英雄の妻にふさわしい良妻賢母である。
一方、ジョイスの描くオデュッセウス(ブルーム)は、ずんぐりむっくりの36歳。職業は新聞の広告取り。好きな食べ物はホルモン。夫婦仲も冷めていて、妻の浮気を気にしながら何も言えない、英雄とはほど遠い男だ。ブルームの妻マリオンは、開放的な精神をもった好色な女性で、数多くの自由恋愛を楽しんでおり、こちらもペネロペイアとはかけ離れている。

1904年6月16日の朝から翌日の早朝までおよそ20時間の出来事を、ダブリンと言う街、レオポルド・ブルームという主人公、スティーブンという青年を中心に描いた本作は、18章それぞれが異なる文体で表現されており、更にその文章はダブリンの街を再現出来ると言われるほど克明に描かれていて、1日の様子全てを18章の中で完全に描ききろうとしているため、時間軸を含めて、立体的に表現されている。
ある章では意識の流れを延々と書き、ある章では戯曲仕立て、またある章ではばかばかしいほどもったいぶった文体で情景を語る。例えば、座っていた主人公が立ち上がって食卓につくという、たったこれだけの行為が原稿用紙数十枚の文章に練り上げられているのだ。
その上、ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語を散りばめ、洒落、造語、冗談、糞尿譚、ポルノ、歌詞の引用、雑学、謎々…読者は涙目になりつつページをめくるしかないのだが、内容を理解する以前にただただ圧倒されるというのが正直な感想だ。
そして、これを日本語文体史(古事記→王朝物語→井原西鶴→夏目漱石→谷崎潤一郎…)として訳した訳者の力業にも素直に感服する。もちろん、こういう作品なので、膨大な脚注が付いている。

しかし、本書が難解で読みにくいかと言うと、意外とそうでもない。
最初こそ面食らうが、(この本はこういうものなんだな)と全面的に受け容れてしまえば、結構楽しく読むことが出来る。ブルームの言動、彼が脳内で思っていることをいちいち書き記すことで、散漫で落ち着きのない人間の思考が念入りに描写され、彼の1日がリアルに再現されていく。

現代文学の前衛として小説スタイルを革新したジョイスを、難解な作家というイメージのまま敬遠しておくのはもったいない。とにかく慣れてジョイス特有の面白さを楽しめるようになれば(そして明確な起承転結を期待しなければ)、前衛的な芸術として楽しめる、という感じだろうか。世の中には軽く読める物も多く存在するが、こういう読書観が変わるような文学もあるのだと知ることが出来るという意味でも重要ではないだろうか。

最後に「ユリシーズ」にまつわるエピソードをひとつ。「ユリシーズ」は、アメリカやイギリスでは好色文学として発禁処分になったのだが、フランスではシルヴィア・ビーチというフランスで書店を営むアメリカ人が出版者となって出版された。
1914年から「ユリシーズ」を執筆し続けてきたジョイスは「もうこれで私の本が出版されることはないだろう」とビ−チに語ったという。ジョイスを崇拝していたビーチは、それから11ヵ月の間、未完成原稿の整理をしたり、病気のため、なかなか執筆が進まないジョイスを励まし続けた。ビーチはこの大作の校正も担当し、その間に初版千部の注文を取り、猥褻問題による出版差し止めを避けるために、英語の読めない印刷屋に頼んだりもした。
そしてついに、1922年「ユリシーズ」が出版された。本の売れゆきは好調だった。ビーチは偽の表紙をつけて税関をごまかした。
ヘミングウェイもビーチの手助けをした。まずビーチがカナダに「ユリシーズ」を大量に送る。そして、ヘミングウェイが服の下に「ユリシーズ」を隠して渡米する。「ユリシーズ」は長編小説だから、必然的にお腹が出っ張る。あのヘミングウェイがジョイスの作品を少しでも多くの人に読んでもらうためにそこまでしていたというのは驚きであり、お腹を膨らませて一冊一冊「ユリシーズ」を運んでいる姿を想像すると、少しほのぼのした気持ちになれる逸話である。

※参考文献
「ジョイスを読む」二十世紀最大の言葉の魔術師/結城英雄著/集英社新書
「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」/シルヴィア・ビーチ著 /河出書房新社


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