映画:忘れられない一瞬がある

「ブロークバック・マウンテン」
Brokeback Mountain


心に深くせつない余韻を残す名作





 2006年のアカデミー最優秀監督賞・脚色賞・作曲賞を獲得し、ベネチアでは金獅子賞、ゴールデングローブ賞では作品賞・監督賞・脚本賞・歌曲賞の4部門を受賞し話題になった作品。原作は女性作家、アニー・プルーが1997年に発表した短編である。監督のアン・リーは「ラスト、コーション」で2度目の金獅子賞を獲得、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」では第85回アカデミー監督賞も受賞し、いまや台湾が誇る世界の巨匠である。そして、グスターボ・サンタオラヤの切ないギター。彼の音楽なくして、この作品は成り立たないと言っても過言ではないだろう。イニスを演じたのは2008年、28歳にして夭折したヒース・レジャー(当時25歳)。朴訥なカウボーイを19歳から39歳まで違和感なく演じている。ジャックを演じたのは「遠い空の向こうに」「ドニー・ダーコ」で若手実力派として注目されたジェイク・ギレンホール。彼の切ない眼差しも印象深い。余談になるが、ヒース・レジャーは本作で妻役を演じたミッシェル・ウィリアムズと実生活でも婚約し、長女マチルダを授かっている(2007年に破局)。同じくこの作品で大親友になったジェイク・ギレンホールはマチルダの名付け親であり、後見人も務めている。
 舞台は1962年、ワイオミング州。幼い頃に両親を亡くし、兄弟も結婚して実家に居場所のなくなったイニスは、アルマ(ミッシェル・ウィリアムズ)との結婚を控えた年の夏、羊の放牧に雇われ、そこでジャックと出会う。無骨で寡黙なイニスと陽気で人懐っこいジャック。対照的な2人は過酷な労働を通して友情を深めていったが、ある凍えるほど寒い夜、テントの中で一線を越えてしまう。しかし、互いへの想いを胸に抱えたまま山での仕事は終わり、次に会う約束もしないまま2人は別れる。その後、イニスはアルマと結婚。2人の娘にも恵まれるが、初々しかったアルマも娘2人を抱えてスーパーで働かなければならない田舎での貧しい暮らしに疲弊していく。ジャックも、ロデオ大会で知り合ったテキサス美人のラリーン(アン・ハサウェイ)と結婚して息子を授かる。ラリーンの父親は農機具の会社を経営していて羽振りがいいが、この父親は何かにつけジャックを馬鹿にしている。どちらもお世辞にも幸せとは言えない実社会での暮らし。そんな4年目のある日、イニスはジャックから遊びに行ってもいいかという葉書を受け取る。自宅でジャックを待っている時のイニスはあからさまにそわそわして落ち着かない。そして再会し、激しくキスを交わす2人。しかし、そんな彼らを目撃してしまったアルマは衝撃を受ける。イニスとジャックはこの再会から毎年ブロークバック・マウンテンで年に数回だけ会うことを誓い合った。ジャックとの関係を知ってから、イニスを愛することが出来なくなっていたアルマは彼と離婚。離婚後のイニスは養育費を払わねばならず、ジャックと会う時は仕事を休むためお金もままならず、街の人たちから同性愛者だと気づかれているんじゃないかという不安を抱えて孤独に暮らしている。ジャックは何もかも捨てて2人で暮らしたいと言うが、イニスにはそれが出来ない。イニスは、子供の頃近くの農場に住んでいた同性愛者の男が惨殺され、溝に投げ込まれた無残な死体を〝教育のために〟父親に見せられたというトラウマを抱えていた。そのせいでイニスは周囲の目を気にせず生きることが出来ない。年に数回しか逢えない関係に苛立ちを抱えていたイニスとジャックは、ある年ついにケンカ別れをしてしまう。その後、ジャックに絵葉書を送ったイニスの元に届いた知らせは…。
 オープニングからセリフがほとんどなく、淡々と描かれる風景の美しさに息をのむ。ブロークバック・マウンテンの美しい自然を背景にストーリーは展開し、物語は静かに進んでいく。この作品にとって同性愛はメインテーマではない。同性愛が認められない時代背景や、思いがけずジャックに惹かれてしまったイニスの戸惑い、それでもお互いを求めずにはいられない葛藤があるからこそ、この物語は深みを増しているのだ。ずっと抑えてきた感情を爆発させ、罵り合い、それでも諦めきれないと不器用に泣くイニスの姿は胸に刺さる。終盤、イニスがジャックの生家を訪れ、ブロークバックでなくしたと思っていた自分のシャツをクローゼットで見つけるシーンはあまりにも切ない。あの日、悪ふざけがエスカレートして怪我をしたイニスの血と山の泥がついたまま、大切に保管されていたシャツ。ジャックがどれだけイニスを深く愛していたか改めて知らされる。そして、最後にイニスが誓うジャックへの想い…。
 2人は、未来に希望がなくても諦めることが出来なかった。結婚しても、子供を授かっても、お互いのことを求め続ける。しかし、厳しい現実が彼らには重くのしかかってくる。イニスは幼少から貧しく、十分な教育を受けることが出来なかった。そのため仕事の選択肢が少なく、金銭的に余裕がないという事情や、当時の父親の影響力がいかに大きかったかという時代背景も垣間見える。20年もの間、ブロークバック・マウンテンでひそかに育み続けた愛。2人が一緒に過ごした時間はごく僅かだ。だからこそ相手を求め、苦しんでしまう。しかし、苦しんでいるのは本人たちだけではない。イニスの妻、ジャックの妻、ジャックの両親。彼らもまた悩み、苦しんでいる。イニスもジャックも自分に正直だったのだろう。どちらの気持ちも理解出来るし、彼らの妻の苦悩も分かる。それでも2人には幸せになって欲しかった、というのが正直な気持ちだ。この作品は何か明確な答えを出せるような物語ではない。観る側がそれぞれ想いを巡らせる余白のある作品だからこそ、いつまでも余韻が後を引くのだろう。アン・リーの抑えた演出、行間を読ませるような深く繊細な感性が光る名作である。

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