映画:忘れられない一瞬がある
「バグダッド・カフェ」
Out Of Rosenheim


乾いた心に水が染み込んでいくような名作





 まだベルリンの壁があり、ドイツが東西に分断されていた1987年、西ドイツの作品。  原題は「Out of Rosenheim(ローゼンハイムから)」。ただし、作品の舞台はアメリカである。作品中のカフェは、イラクの首都バグダッド(Baghdad)ではなく、実在した小さな町(Bagdad)が由来である。
 モハーヴェ砂漠の真ん中、ラスベガスとロスを結ぶRoute 66沿いのバグダッド・カフェ。  スタンドとモーテルを併設するこの店を切り盛りするブレンダは、役立たずの夫や、自分勝手な子供達、ここへ住み着いた変わり者たちに囲まれてヒステリックな毎日を送っている。そんなある日、ひとりの太ったドイツ人女性がやって来た。彼女の名はジャスミン。大きなトランクを抱え、黒いスーツを着込み、砂埃の道をハイヒールで歩いて来た彼女を、ブレンダはあからさまに警戒する。しかし、初めは奇異に思われたジャスミンが、その天性の明るさで周囲を包み込むのに時間はかからなかった。最初はよそ者だと白い目で見ていた住人たちも、いつしかジャスミンの優しさと明るさに魅かれていく。
 ストーリーだけでは全く本質が伝わらない作品はたくさんあるが、この作品も間違いなくそのタイプ。95分の映画だったが、日本では1989年に初公開されて大ヒットし、当時のミニシアターブームを代表する作品となった。19 94年には「バグダッド・カフェ 完全版 」がリバイバル上映され、新たなファンを呼んだ。2008年にはアドロン監督自ら全てのカットの色と構図を調整し直した「バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版」がカンヌ国際映画祭で上映された。日本でも初公開から20周年を迎えた2009年12月から全国のミニシアターで順次公開された人気作である。
 この作品は、淡々としたストーリーの中で、殺伐としたカフェの住民たちの心が次第に緩み始めていく、その描き方がとにかく上手い。ひと癖もふた癖もありそうな人たちが、温かみのある人間に変わって行く様に胸を打たれる。そして、独特の色合いや意図的な画面作りも効果的で、透き通るように見せる青空がとても美しい。
 斜めにカッティングされた画像や、古ぼけた質感、砂漠に飛ぶブーメラン、店名が書かれたタンクと青い空…舞台はいかにも「アメリカ」というロケーションだが、映画の手法は非常にヨーロッパテイストなのだ。こうした映像感覚も魅力の一つだろう。  アメリカに憧れ、アメリカ映画を撮ろうとしたドイツの映画作家ヴィム・ヴェンダースが、テキサスの砂漠に実在するパリを題材に撮った傑作「パリ、テキサス」へのオマージュが、この「バグダッド・カフェ」には込められている。
 登場人物も、ドイツ人女優のマリアンネ・ゲーゼブレをはじめ、ギアナ出身のCCH・パウンダーなど個性派ばかり。モーテルの住人たちも味わい深い演技を展開する。美男美女は1人も登場しない。それなのに、なぜかどんどん映画の世界に魅きこまれていく。
 そして、何よりジェヴェッタ・スティールが歌う主題曲「Calling You」が、この作品の雰囲気にぴったりで、全編を覆う砂漠のオアシス的な役割も担っている。曲の素晴らしさを物語るように80組を超えるアーティストがカバーするヒット曲となっているが、やはりジュヴェッタの空に広がるような歌声の「Calling You」に勝るものはないだろう。
 作品中、ストーリーが転換するきっかけになる場面がある。砂漠の砂に埋もれたバグダッド・カフェを、ジャスミンが綺麗に掃除してしまうシーンだ。そこから全ての流れが変わっていく。簡単に出来ることなのに、(そんな事をしたって、何も変わらない)と思って誰もやろうとしない。ただ惰性で時だけが過ぎてしまう。現実でもよくある事だが、このジャスミンの小さな行動は、周りの意識を少しずつ変えていく。そして、それぞれが少し前向きな気持ちになった時、全ての物事が変わり始める。
 日々の生活の中で、人はお互い繋がり、助け合っていける。この作品は、そんな幻想を現実として教えてくれる。生きることの切なさ、孤独、帰る場所があることの温かさに満ちたこの作品は、乾いた心に水のように染み渡っていく。作品の終盤、カフェの住人である女刺青師が、悲しい表情で「仲良すぎるわ」と言い残して出てゆく場面も非常に印象的である。
 一種童話的なストーリーと、ロード・ムービーが持つ哀感とのバランスが絶妙なので、観終った後に何とも言えない豊かな気持ちにさせてくれるのだ。
 この作品が多くの人に長く愛されている理由は、 やっぱり人間って心なんだ という単純な本質が描かれているからだろう。日々の生活に疲れて周囲に心を閉ざす哀しさと、そういった人たちに優しく寄り添う人たちがいる事をさりげなく、そして温かい眼差しで描いている。まず自分が出来る事から少しずつ始めてみればいいんじゃないか、という前向きな気持ちにさせてくれる素敵な作品である。

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