映画:忘れられない一瞬がある
「カスパー・ハウザーの謎」
JEDER FUR SICH UND GOTT GEGEN ALLE


実話に基づく謎に満ちた物語





 カスパー・ハウザーという人物をご存知だろうか?  19世紀初頭のドイツ・ニュルンベルクの小さな町の広場で、身元不明の青年が保護された。彼はまともに歩ける状態でなく、いくつかの単語しか話せなかった。唯一彼が紙に書けたのは、恐らく彼の名前であろう Kaspar Hauser という文字のみ。調査の結果、カスパーは外界と遮断された窓のない暗い部屋に幽閉され、パンと水だけを与えられていたことが判明した。
 保護された後、カスパーの元を次々と学者や著名人が訪れた。また当時の市長も特別処置を取り、熱心に彼の成長を記録し続けたという。こうして数ヶ月が過ぎ、カスパーは別人のように成長した。言葉が流暢になったカスパーは、周囲の勧めもあって回顧録を著す。  それによると、彼が16歳で表に出るまで暮らしていた場所は奥行き2メートル、幅1メートル。窓はなく、床には寝床代わりに干し草だけが積まれていた。地下牢に明かりはなく、木馬がたったひとつあるだけだった。その部屋にいた十数年の間、彼は人間と会話した事すらなかった。その狭い地下牢だけが彼の全世界だったのである。
 その後、彼は社交界の貴族たちに愛され、様々な場所に呼ばれる身分となった。さらに市では彼の出生の秘密を探るために懸賞金をかけて情報を募った。  どうしてカスパー・ハウザーが注目を浴びたのか。それは彼が当時の王位継承者の子息で、幼い頃に誘拐されて幽閉されていたという説が有力だったからである。そして、噂が広まるにつれ、様々な憶測が飛び交うようになった。彼の出現は、余りにスキャンダラスで謎に包まれていたのだ。  カスパー・ハウザーの物語は伝説としてヨーロッパでは有名らしいが、その真相は未だに解明されておらず、本作も監督のヴェルナー・ヘルツォークが独自の視点で映画化したものである。
 ヘルツォークの初期の作品である本作は、1975年度カンヌ国際映画祭審査員特別賞、国際映画批評家連盟賞受賞、またニューヨーク・フィルムフェスティバル最優秀映画賞を受賞している。  ヘルツォーク自身、11歳になるまで現代文明から隔絶されたドイツ南部地方の農地を家族で転々とする生活を送り、映画・テレビはもとより電話すら知らずに育ったという経歴の持ち主。両親の離婚後、母親とミュンヘンで暮らし、ミュンヘンの大学で歴史・文学・演劇を専攻。19歳で最初の作品 「Heracles」を発表して以後、クラウス・キンスキーとのコンビによる「アギーレ」「ノスフェラトゥ」などを始め、ドキュメンタリー、ドラマなど多方面での監督活動を精力的にこなし、2011年現在に至るまで新作を発表し続けている。また、1997年には三枝成彰作曲、島田雅彦脚本によるオペラ「忠臣蔵」を日本でも演出。「東京画」(1985年/W.ヴェンダース監督)では役者として出演している。
 本作でまず驚くのは、主人公を演じたブルーノ・Sの演技だ。ブルーノは、幼い頃から精神病院に入れられ、何度も脱走を繰り返し、26歳で退院して世間に出たという人物。ブルーノのドキュメンタリーを観たヘルツォーク監督は即座に彼の起用を決めたという。カスパー同様に隔離生活の経験を持つ彼の浮世離れした存在感は、作品に圧倒的なリアリティを与えている。
 カスパー・ハウザーの正体や、彼が保護された経緯については諸説あるようだが、ヘルツォークはそういった部分を究明しようとはしていない。長い監禁状態から突如としてドイツの町なかに放り出されたカスパーが好奇の目にさらされ傷つく姿、そんな彼を取り巻く人々の利己的で偽善的な姿を通して、人間という生き物の純粋さと残酷さを淡々と描いている。
 言葉も喋れず、社会生活のルールも知らなかったカスパーは、驚くべき純粋無垢さを持っていた。 彼の奇跡は、彼の存在そのものでもあった。しかし、カスパーを取り巻く人間は、自分たちの日常生活の営みが正しいという通念で、カスパーの個性を押し潰そうとする。物語が進むにつれ、こうした人間の欺瞞がどんどん明らかになってきて、学者や宗教者が彼に教え込もうとする理論や神の摂理が、全て無意味な物に感じられる。ヘルツォークは、様々な人たちの醜さを描くことによって現代社会にも通じる問題を投げかけているのだ。
 カスパー・ハウザーの存在は、人が育っていく中で、本来持っている無垢な魂がどれだけ汚されていくか、どれだけの感性が失われていくかを私たちに突きつける。どんなに言葉を覚えても、社会生活のルールを習得しても、彼は安らぎを見つけることが出来なかった。地下牢を出た彼が、人間として成長していくことに喜びを感じるのではなく、苦悩を深めてゆく様子、そして孤独なまま逝ってしまったという事実は胸に刺さる。
 実はこの話、現在もドイツで調査が進行中らしく、何度かDNA鑑定も行われている。幽閉されていたという地下の部屋や、おもちゃの木馬も発見されたらしいが、真実は解明されていない。この先どんな事実が判明するのか。真実を知りたいような、謎は謎のままで静かに眠らせておきたいような、複雑な気分である。

映画トップ