映画:忘れられない一瞬がある

「毛皮のヴィーナス」
La Venus a la fourrure



現実と虚構の狭間で妖しく惑わされる




 オーストリアの小説家レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの自伝的小説「毛皮を着たヴィーナス」をモチーフにした戯曲を、ロマン・ポランスキー監督が映画化。主演はポランスキー監督の3人目の妻であり、実力派女優のエマニュエル・セニエと、カメレオン俳優として高い評価を受けているマチュー・アマルリック。「おとなのけんか」(2011年)は夫婦2組・4人しか登場しない作品だったが、今回は2人だけ、しかも舞台は劇場のみというシチュエーションを限りなく絞った作品である。
 ある雨の日、パリの古びた劇場。 脚色家・演出家のトマ(マチュー・アマルリック)は朝から30人以上をオーディションしていたが、イメージ通りの演技をする女優はいなかった。彼が荷物をまとめて帰ろうとしていた矢先、オーディションに遅刻してきた無名の女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)がずぶ濡れになりながら入って来る。主役と同じ名前をもつワンダをなかなか追い払えず、仕方なくオーディションを始めることになる。このワンダという女優は、図々しい上に言葉遣いも下品で、知性の欠片も感じられない。ところがオーディションが始まるとワンダの雰囲気は一変し、貴婦人そのものの存在感で演技を始める。驚いたトマは、もう少し続けようと演技を重ね、次第にワンダの妖しい魅力に引き寄せられる。やがて2人の立場は逆転し、徐々にトマ自身も気づいていなかったマゾヒスティックな性的嗜好を剥き出しにされていく。心の深層を暴き出されたトマの結末は…。
 舞台というシチュエーションで現実のワンダと「毛皮を着たヴィーナス」のワンダが入れ替わり、何が現実で何が虚構なのか、トマにも観客にも分からなくなっていく。ワンダはトマに化粧をさせ、毛皮のストールを巻いて「毛皮を着たヴィーナス」の役をさせる。トマは恍惚とした表情でヴィーナスを演じるが、その姿は滑稽だ。ここで演出家と役者の関係は逆転し、ワンダは毛皮のヴィーナスというものが、トマによって作られた男の妄想であること、申し分ない恋人がいながら満たされない欲望を抱えているトマの本性を看破する。このワンダという女性が何者なのか作中では明確にされないが、現実のワンダも劇中のワンダも、何者かと訊かれるたびに「私は異教徒よ」と答えているので、古代ローマやギリシャの女神ヴィーナスか、バッカスの巫女の化身と解釈できるだろう。
 トマは被虐に快感を覚える性癖を持っているが、女性に服従するというより女性に〝苛めるよう演じさせたい〟だけの身勝手な男だ。それは作中で「クソ女」「バカ女」という発言をしたり、「これは自分の書いた脚本だ」と主張することからも伺える。そんなトマが次第に演技を忘れ、ワンダに支配されることに心酔していく。しかし、原作を崇高な愛の物話と主張するトマに対し、ワンダは「こんなもん、ただのエロ小説よ」と突き放し、マゾヒズムをはじめとする変態的な願望はすべて男性側の都合であることを暴く。ラスト、男根型のサボテンのハリボテに縛られたトマを放置してカメラが遠ざかりドアが閉まっていくシーンは、そんな身勝手な男性に対するお仕置きのようでスカッとする。
 そして何より、主演2人の素晴らしさ。彼らの演技力がなければ本作は成立しない。 序盤、下品に騒がしく喋りまくり、マイペースに発声練習をしていたワンダが最初の台詞「セヴェリン・フォン・クシェムスキー?」という呼びかけるシーンから突然、気高い話し方に変わる。その声を聞いた瞬間、ワンダに背を向けていたトマは驚愕の表情で振り返る。ここから映画の空気がガラッと変わる鳥肌もののシーンだ。狡猾さ、女優としての魅力、サディスティックさを絶妙にミックスし、いくつもの役を演じ分けているエマニュエル・セニエの演技力は恐くなるほど。ノヴァチェク役のマチュー・アマルリックは「007/慰めの報酬」の敵役や「グランド・ブダペスト・ホテル」「潜水服は蝶の夢を見る」に出演し、世界的に活躍するフランス人俳優だが、ワンダの図々しさにうんざりする様子、ワンダに魅了されながらも本性を暴かれまいと抵抗する様子、被虐の快感に打ち震えている表情など、さすがカメレオン俳優と呼ばれるだけのことはある見事な演じぶり。こんなに上手い役者さんだったのかと改めて感心してしまった。
 監督のポランスキーは閉鎖された空間での狂気や緊張感を描くのがとても巧い。本作は「おとなのけんか」と同様にテンポの良い会話劇だが、台詞を重ねることで登場人物の本性を暴いていく過程が秀逸。SとMがテーマではあるが、意外とエロさは少ない。本作は古典文学のマゾヒズムを、現代のフェミニズムという立場からきわどく風刺した作品であると同時に、妻・エマニュエル・セニエへの惜しみない礼讃でもある。80歳を越えても枯れないユーモアとエロス。こんな作品が撮れる監督は本当に少ないだろう。2人だけの密室劇をこれだけ魅せてしまうポランスキーにただただ脱帽。96分間全く飽きない濃密さで妖しい世界を堪能できる作品である。

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