映画:忘れられない一瞬がある

「黒い罠」
Touch of Evil


鮮烈なモノクロ映像とオーソン・ウェルズの存在感に脱帽





 オーソン・ウェルズと言えば、若干25歳で『市民ケーン』を発表し、全世界を驚かせた天才である。『市民ケーン』は映画のベストを選出すると必ずベスト3に入る名作だが、実はこの『黒い罠』の方が好きだというカルトファンも多い。
 オーソン・ウェルズの作品は製作に莫大な費用がかかるため、映画会社とのトラブルが絶えず、ハリウッドではトラブルメーカーとして敬遠されていた。そのため優れた才能がありながら、映画製作の環境には恵まれなかった。監督作として第8作にあたる『黒い罠』は、1948年の『マクベス』以来、オーソン・ウェルズが久々にメガフォンをとった作品で、彼自身が主演している。
 もともと『黒い罠』の企画はユニバーサル社より持ち込まれたもので、当初は主演のみの依頼だった。しかしオーソン・ウェルズの出演を知ったチャールトン・ヘストンが、彼が監督も兼ねることを強く要望したためウェルズの監督が実現した。ウェルズは映画を効率的に撮り、浪費家としてのイメージを払拭するチャンスと考え、ユニバーサル社が提示した監督・出演・脚本の改稿を含め12万5000ドルの報酬で仕事を引き受けた。
 ウェルズは脚本の大幅な書き直しを行った後、作品を撮り上げた。しかし、ユニバーサル社は複雑なストーリー展開に難色を示し、ウェルズがメキシコに滞在している隙に再編集を行ってしまう。ユニバーサル社によってズタズタに切り刻まれた作品を観たウェルズは、58ページの意見書を提出して自分の意図に沿った再編集を強く要請したが、ユニバーサル社は彼の提案を受け入れなかった。そして、ひっそりと公開された本作は興行的に失敗し、ウェルズがハリウッドで監督した最後の作品となってしまった。  巨匠マーティン・スコセッシに「映画史上、ウェルズほど多くの人に映画監督になりたいという志を抱かせた人はいない」と言わしめた、天才にして悲劇の監督オーソン・ウェルズ。
 しかし、1998年には意見書に基づいてウェルズの意図に最も近い編集を行った111分のディレクターズカット版が公開されているので、『黒い罠』を鑑賞するなら絶対にこちらをおすすめしたい。  この作品の見所にオープニングの長回しがある。 まず時限爆弾のスイッチを入れるところが映し出される。犯人が駐車場に停めている車のトランクに忍び寄ると、男の影がワンテンポ遅れて壁を伝う。中年の紳士と若い女性がその車に乗り込み、アメリカからメキシコへの国境を通過する。同時にチャールトン・ヘストンとジャネット・リーの新婚夫妻が徒歩で、ゆっくり国境を越える。2人は管理事務所の男と会話を交わし、一瞬、車と夫妻は同じ画面に収まる。乗用車が国境を越えて画面から消えると、大音響とともに爆破が起こる。
 ロバート・アルトマンが『ザ・プレーヤー』の中で登場人物に語らせ、ゴダールが『空間の振付』と激賞した伝説のオープニングである。この冒頭から何が起こるのだろうという期待で一気に映画の世界に引き込まれていく。  物語の舞台はアメリカとメキシコの国境の町。冒頭の爆発で死亡したのはこの町の有力者だった。新婚旅行で町に来ていたメキシコ人検事のバルガス(チャールトン・ヘストン)はアメリカ人の刑事クインラン(オーソン・ウェルズ)やその相棒メンジスらと協力して捜査に当たる。クインランは足が不自由だが獰猛な性格で、自分の担当した事件で必ず犯人を挙げる男として知られていた。今回の事件でもメキシコ人の容疑者を逮捕するが、証拠品はクインランが捏造したものだった。それに気づいたバルガスは不審を抱き、クインランの扱った過去の事件を調査する。すると、過去にも同様にクインランによって証拠が捏造されたと思われる事件があった。
 弱味を探られたのを知ったクインランは、ギャングのグランディにバルガスの妻スーザン(ジャネット・リー)を誘拐させ、ホテルの一室で彼女を麻薬漬けにする。クインランはその部屋でグランディを絞殺し、スーザンに殺人の罪をかぶせようとするが、クインランが現場に置き忘れた愛用の杖を相棒のメンジスが発見し、クインランが長年犯してきた犯人検挙の手法に気付く。メンジスはバルガスに協力することを決意し、隠しマイクを身に着けてクインランから真実を引き出そうとする。  しかし、それを見破ったクインランはメンジスを射殺、後をつけていたバルガスも撃とうとする。その時、メンジスの最後の弾丸がクインランに当たり、録音された証拠のテープを聞きながらクインランは息絶える。その頃、クインランが捏造した証拠で逮捕されたメキシコ人は、爆弾事件の犯人であることを自白していた…。
 クインラン警部役のオーソン・ウェルズは、もともと130キロあった体重を、更に太っているように見せるため服の中に詰め物を入れ、毎日2時間かけて特殊メイクを施したという。
 そしてもうひとつ、この作品を語る上で欠かせないのがマレーネ・ディートリッヒの友情出演である。 ウェルズの親友でもあったディートリッヒは、ノークレジットならノーギャラでOKという事で出演を快諾したそうだ。ディートリッヒは自伝にこう書いている「今でこそ『黒い罠』は国際的に評価されている。しかし1958年当時、ユニバーサルはこの映画をまったく無視していて、彼(オーソン・ウェルズ)に対する態度は卑劣極まりなかった(中略)私の撮影はたった一晩であった。遠慮なくいわせてもらうなら、わたしはこの日ほど納得のいく演技をしたことはなかった。」  ディートリッヒは、弓なりの細い眉ではなく太い眉、自前の衣装に黒髪という姿で、オーソン・ウェルズは後に「すぐには誰か分からなかった」と回想している。出演はわずか2シーンだが、一言「アディオス」と言って夜の闇に去るラストシーンの存在感は、さすがディートリッヒである。
 モノクロの映像、不安をそそる陰影、そして怪しげな登場人物が見る者の不安を掻き立てる本作は、オーソン・ウェルズの映画に対する思い入れと類い稀なセンスに満ちていて、とても50年以上前の作品だとは思えない。オーソン・ウェルズは、やはり天才だと改めて思い知らされる傑作である。

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