映画:忘れられない一瞬がある

「コーヒーをめぐる冒険」
OH BOY



行く先々でコーヒーが飲めない青年の1日。




 監督のヤン・オーレ・ゲルスターは1978年ドイツ・ハーゲン生まれ。本作はドイツ映画テレビ・アカデミーの卒業作品であり初監督作でありながらドイツ・アカデミー賞9部門にノミネート、作品賞・監督賞を含む主要6部門を獲得するという快挙を成し遂げた。「コーヒーをめぐる冒険」はドイツ国内で大ヒット、海外でも高く評価され数々の賞を受賞した。85分と短い映画で全編モノクロ。ベルリンが舞台というのはヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」と共通しているし、ゴダールやタルコフスキー、「タクシードライバー」のオマージュが散りばめられ、監督自身が脚本を書く前にフランソワ・トリュフォーを学んだと言っているように全体にトリュフォー感も溢れている。
 主人公はベルリンでただ〝考える〟日々を送っているニコ(トム・シリング)という青年。彼は2年前に大学を自主退学しているが、それを内緒にして父親から仕送りを貰い続け、毎日ブラブラしている。ある朝、恋人の部屋で彼女に「今夜の予定は?」と聞かれ嫌な顔をしたことがきっかけで恋人と別れるハメになり、ついでにコーヒーを飲み損ねてしまう。ここからニコのついていない1日が始まる。立ち寄ったカフェでコーヒーを注文すると店員は執拗に「アラビアかコロンビアか」と選択を迫り、仕方なく選ぶと法外な料金を請求され、結局ここでもコーヒーを飲むことができない。街角のATMで貯金を下ろそうとすると、キャッシュカードが機械に吸い込まれてしまう。売れない役者をやっている友人のマッツェと気分転換に行ったバーガーショップでもマシンの故障のためコーヒーを飲み損ねる。店では同級生のユリカと13年ぶりに再会し、ユリカが出演している前衛
劇を見に行く約束をする。マッツェと行った撮影現場でもコーヒーポットを見つけるが中身は空。その時、父親からケータイに呼び出しメールが入る。ニコが中退した事を知った父親に仕送りは打ち切り、自分で稼いで生活しろと宣告されてしまう。再びマッツェと会いユリカが出ている劇団の公演を観に行くと、アングラな小劇場で意味不明のパフォーマンスが繰り広げられている。公演終了後、ユリカと良い雰囲気になるが、他人と深い関係を築くことができないニコは甘い雰囲気を壊してしまう。その後、立ち寄ったバーではコーヒーマシンを洗い終わった後でやっぱりコーヒーは飲めない。仕方なく酒を飲んでいると、酔っ払いの老人に絡まれ、戦争中の思い出話を聞かされる。話を終えた老人はバーを出た直後に倒れ、行きがかり上ニコも救急車で病院に。夜が明けるまで待合室で待っていると、老人は息を引き取ったと知らされる。病院からの帰りに入った早朝のカフェで、ニコはやっと1杯のコーヒーを飲むことができた。ニコにとっての長い1日がやっと終わったのだ。コーヒーにほっと一息つき、心地よいジャズが流れて物語は終わる。
 ニコは行く先々でコーヒーを飲もうとするが、どうしても飲むことができない。これは、ニコと周囲との不協和音を象徴している。ニコは様々な人と出会い、そこで起こるエピソードは絶妙で笑いを誘う。しかし、ニコ自身が「周りが変に思えて、違和感があるんだ。だけど分かってきた。問題なのは他人じゃなくて、自分なんだと…」と言っているように、ニコは周囲との違和感が何なのか、その正体について考え続けている。ニコのこうした感覚を若い頃に経験したという人もいるだろう。こういう時は立ち止まる勇気も必要だ。世間の目や一般的な常識を気にして流されてしまうと、もう〝ここ〟に戻ってくる事はできない。誰にも理解してもらえなくても、上手く説明できなくても、〝ここ〟で何かを見つけるまでじっとしている、ニコはまさにそんな時期の真っただ中にいたのだろう。老人との出会いと別れはそんなニコにとって特別なものになる。バーでニコに話しかけてきた老人は「人間の言葉が分からない」「自分は60年別の場所にいた」と話す。そして子どもの頃、父親に「いいものを見せてやる」と連れ出され、石を投げるように言われて手にした石をバーに向かって投げたと言う。これは1938年実際に起こった反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」事件のことだ。多数の死傷者が出て、砕けたガラスの破片が月光できらきら輝いていたことからこう呼ばれる。闇夜に明々と火の手が上がり、地面に散乱したガラス片を見て、彼は激しく泣き出したと振り返る。老人の死を知り、彼には家族がいない事を聞いたニコは、看護師の女性に名前を聞く。しかし個人情報だからと教えてもらえない。それでもファーストネームだけでもと頼むニコに看護師が教えた名前は「フリードリヒ」。ドイツは戦後、ベルリンのフリードリヒ通りを中心に2つの国に分かれたので、この名前にはそういう暗喩も込められているのだろう。ニコは他人と深く付き合う事が苦手で対人関係を上手く築けない。しかし、老人に対して初めて自分から深く関わろうとする。意味もわからずナチスに加担してしまった悲しい過去、そして孤独な死を目の当たりにしてニコの中で何かが変わる。夜明けのカフェでニコが1杯のコーヒーを飲むラストは、彼はもう新しい一歩を踏み出すことができるという暗示だろう。進む方向が分からない不安な時期と、そこから抜け出す瞬間を、力の抜けたユーモアと繊細なタッチで描き、観る者の心に染みる。そして無性にコーヒーが飲みたくなる。
 ニコを演じるトム・シリングは、本作でドイツ・アカデミー賞主演男優賞を獲得した。童顔だが1982年生まれの36歳。少年っぽい雰囲気とダークな雰囲気を併せ持っていて、そこがうまく作品とマッチしている。ニコが出会うクセのある人たちは、総勢20名以上の個性豊かな名優たちが集結したという。この作品で世界中の注目を浴びたゲルスター監督が、今後どんな作品を発表するのか大いに期待したい。

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