映画:忘れられない一瞬がある

「 ウィスキー」
Whisky


ほろ苦い大人向けの人間ドラマ





 監督のファン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは1974年、ウルグアイのモンテビデオ生まれ。大学在学中から共同監督・共同脚本家として、映像関連のプロジェクトをいくつか手がけてきた2人は、長編作品「25ワッツ」でロッテルダム映画祭をはじめ様々な映画祭で受賞を果たし、注目を集めた。2作目となる本作は、主な登場人物がたった3人、それも若くも美しくもない中年男女の物語なのだが、人生の悲哀をユーモラスに描き、味わい深い作品に仕上がっている。ちなみにタイトルの〝ウィスキー〟とは、ウルグアイで写真を撮るときのお決まりのセリフで、日本の〝はい、チーズ〟と同じ意味である。本作は東京国際映画祭でグランプリと、ミレージャ・パスクアルが主演女優賞を受賞。カンヌでのオリジナル視点賞をはじめ各国の映画祭で最高賞を獲得している。しかし2006年7月、ファン・パブロ・レベージャは自宅アパートで自ら命を断ち映画ファンに衝撃を与えた。
 舞台はウルグアイの小さな靴下工場。小さな靴下工場を経営する初老の男ハコボは、結婚もしておらず子供もいない。毎朝工場の近くのカフェで朝食を食べ、工場に行き、シャッターを開け、機械のスイッチを入れる。それを毎日繰り返している。そのハコボを毎朝工場の前で待っているのが、長年働いている中年女性のマルタ。地味な服装、顔に刻まれた皺は彼女の人生を想像させる。シャッターが開くと工場に入ってお茶をいれ、淡々と仕事を処理する。無表情で同じ行動、同じ台詞を繰り返す日々。そんなある日、ハコボが珍しくマルタに声をかける。1年前に亡くなった母親の墓石建立式に疎遠だった弟・エルマンがブラジルから訪ねて来ることになったのだが、その時だけ自分の妻のふりをして欲しいというのだ。マルタはその突拍子もない頼みをあっさり引き受ける。翌朝、いつものようにハコボとマルタは工場の前で顔を合わせるが、ハコボはいつもと同じようにシャッターを開け、機械のスイッチを入れて、仕事を始める。その様子を黙って見ていたマルタは、仕事の合間に「例の件の打ち合わせが必要なのでは?」とハコボに話しかける。しかしハコボは「それもそうだ」と、まるで他人事のような受け答え。殺風景なハコボの部屋をそれらしく飾り付け、指輪を準備し、2人で撮った写真を飾るマルタ。髪型を変え、口紅をつけ、華やかな服を着て綺麗になっていくが、ハコボはその変化に気づかない。この辺りから男女の感覚の違いが現れてくる。そして、いよいよ弟のエルマンが訪れる。意固地で無骨な兄と器用で社交的な弟。兄弟ならではの複雑な感情が少ないセリフと表情で交わされ、ぎこちないままハコボ、マルタ、エルマンの物語が展開される。母親の墓石建立式はなんとかやり過ごしたが、エルマンは「ブラジルに戻る前に兄さん夫婦と旅行をしたい」と言い出す。断ろうとしたハコボもエルマンとマルタに押し切られ、3人は旅立つ。旅先で過ごす数日間は、静かに、そして確実にマルタの中に変化をもたらす。ハコボとエルマンは歩み寄ることが出来るのか。そしてマルタの決断は…。
 物語は、この先で何か具体的な進展があるだろう、と思っている所で突如エンドロールに切り替わる。まさかのうっちゃり感も否めないが、この潔さには脱帽だ。南米というと陽気で賑やかな印象だが、この作品を観る限りでは全く違う。無駄なセリフが一切なく、人物の表情を淡々と追うスタイルは、むしろ日本的に感じられる。無口で不器用なハコボと、話好きで親しみやすいエルマンが醸し出す間、そしてマルタが見せる前半と後半の表情の違いは絶妙だ。本作でマルタ役のミレージャ・パスクアルが評価されたのも大いに納得できる。登場人物の3人はオーディションで選ばれたそうだが、ちょっとした表情や、何気ない行動で心の機微を表現する演技力には感心させられる。    たとえ期限付きの偽夫婦でも、おしゃれをして見違えるほど雰囲気が変わるマルタ。夢見ることもなく、ひたすら真面目に働いてきた女性が、中年になって初めてほんの少しときめき、ささやかな贅沢をする…そんなせつなさが伝わってくるようだ。マルタの想いが垣間見える一方、ハコボは一貫して無口で無表情のまま。マルタの変化にも全く無頓着だ。そんな2人のやり取りに共感したり、もどかしさを感じたり。偽夫婦の符号でもあった結婚指輪をマルタが返した時も、ハコボは心のこもった言葉を発することはなかった。タクシーを呼び、ハコボの家から1人自宅へ帰るマルタの表情からは、数日間の非日常がもたらした心の変化や、再び日常に戻ることへの拒絶が見えるような気がした。そして、その印象深い表情が、マルタが本作で見せた最後の姿となる。すでに老齢に達しようとしている彼らは、自ら積極的に生き方を変えようとはしない。しかし、ほんの少しのきっかけで大きく人生が変わってしまう事もあるのだ。再開される工場の日常、前半と同じアングルでカメラが映し出す風景。しかし、そこには変わらないものと変わってしまったものがある。そして一度変わったものは2度と元に戻らないのだ。それが観る側の心にも深く刺さる。「ウィスキー」はハッピーエンドかもしれないし、そうじゃないかもしれない。観る側がいかようにも想像できるエンディングは、この先3人がどんな人生を送るか想いを巡らせる楽しみを残してくれている。映画の醍醐味が詰まった素晴らしい作品だ。

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